2012年9月26日水曜日

音楽の魔術師 マーク・ボラン





マーク・ボランは若い頃、フランスで魔女と同棲していて、その魔女に“あなたは若くして大成功を収めるが、30歳までに血まみれになって死ぬだろう”と預言された。ファンタジーの大好きなマークらしい作り話であると大方の取り巻きは信用しなかったのだが、現実は小説より奇なりの言葉通り、その預言は現実のものとなる。

30歳になる2週間前の’77年9月16日、内縁の妻であったグロリア・ジョーンズが運転する紫のブリティッシュ レイランド/275Gが木立に激突し、マークは還らぬ人となった。長年のヘロイン服用のためすでにボロボロになっていた血管が、衝突のショックで破裂したため、まさに全身血まみれになって亡くなったという。奇しくもそのちょうど一ヶ月前の8月16日、ロックンロールは巨星エルヴィス・プレスリーを失ったところだった。

この事故現場には今でも多くのファンが供花を持って訪れる。筆者もたまたまロンドンに行く友人がいたので、供花をお願いしたことがある。’02年9月13日には、ファンクラブによって立派な胸像が立てられた。

’76年9月 ロンドンの100CLUBでセックス ピストルズがデビューし、ロックはオールド ウェーヴを駆逐するパンクスの群れの洗礼を受けていた。ロックが再び大きく揺れ動く前夜、エルヴィスもマークもその使命を終えたかのように、神に召還されたのである。
マークは生前、“もし200年先にタンスの底に「ジープスター」があるのを見つけたとき、人々にどんな印象を持ってもらいたいと思いますか”という質問に答えて、“彼らが、僕をジョン・レノンやチャック・ベリーのレコードと同じものであると思ってくれたらなぁ”とため息交じりに語っていたという。そして、21世紀の今、マークの残したボラン ブギは確実に新しいファンを増やし続けている。

オールド ウェーヴを毛嫌いしたパンクの群れが、しかしこぞって支持したのが、’67年にデビューしたジム・モリソンを擁するドアーズと’72年11月の初来日時にピークを迎えたマーク率いるT.レックスだった。どう考えても彼らもまたオールド ウェーヴのはずなのだが、実際にはニュー ウェーヴのルーツとして捉えられている。

これには講談社から発行されている<ロック栄光の50年~14号 1972-1973①『グラム ロックとプログレッシブ ロック』>に面白い仮説が掲載されているので紹介したい(なおこのシリーズは学術志向の強い講談社の体質が良い方向に出たなかなか読み応えのある内容になっており、ロック全体を俯瞰的に捉えてみたい方は是非一度、ご覧になることをお勧めする)。
“若い世代の表現手段としてもっとも身近なはずのロックは、’60年代後半からアート志向を強め、先鋭化していった。ロックが表現者とその受け手を限定していくなか、その傾向に反旗をひるがえすかのように、奇抜な化粧と衣装で大衆音楽の復権を体現しようとする新ジャンルが生まれた。グラム ロックはロックの権威化に対する反抗勢力である”

’77年8月、マンチェスターのグラナダTV制作による音楽番組『MARC』(全6回)のホストとして、マーク・ボランは当時、続々と登場したパンクスたち(ダムド、等)をゲストに迎え、彼らを積極的に紹介することで、その後のパンク シーンに大きな影響を与えた。マークはゴッド ファーザー オブ パンクとさえ言われたが、実際、パンクス達の判断が正しかったことは歴史が証明している。

この『MARC』の主題歌として発表された「Sing Me A Song」「Endless Sleep」の通俗的で薄っぺらいしかし不埒なほどにキャッチーなメロディの素晴らしさは、強調されてされ過ぎることはない正にマーク・ボランにしか作れないポップスだ。こういった曲を聴くにつけ、マーク・ボランは二度と現れることのないポップ ソング ライターだったことを痛感する。

筆者はマーク・ボランこそ、ポピュラー史に最初に登場したプロミュージシャンだと考えている。’60年代のロックはどこまで行っても自己の体験を対象化し、サウンド化していたに過ぎなかった。例えばサイケデリック ロック等はマリファナの服用経験から得られる様々な幻覚症状を、音響的になぞったものである。結局のところ、’60年代にロック スターになるためにはロック的なるものに殉職して夭折するしかなかった。
’70年代以降のロックは職業としての側面をはっきりと打ち出すようになっていく。つまり、’60年代から’'70年代へのロックの移行とは、それまでのロック スターに宿命的に付きまとった破滅的な人生やドラッグ・セックス・デスといった反社会的なイメージが、芸能として演じられる対象となっていく過程であるとも言えよう。

マークはロック スターのあり方にどこまでも忠実で自覚的であったから、自分の役割をきちんと把握していたし、ロックがどこまで行ってもブリキの玩具でしかないことも分かっていた。グラム ロックという時代の仇花的なジャンルで頂点を極めたマークはだから、職業としてピカピカの派手なスーツを身にまとい、化粧をして、自らを最高にカッコよく見せることに執着したのだ。単なる自己満足として楽器を操る技術を高めるのではなく、音楽としてどこまでファンを楽しませられるか? どんな風にギターが鳴るとカッコいいのか? を追求した結果が、一曲3分弱のシンプルなブギにたどり着いたのである。

21世紀に入り、音楽も ’70年代と比べると多種多様化して混迷の度合いを増している。音楽がデジタルによって簡単に複製され、その霊性を喪失し、また音楽が単なるファッションとして大衆消費の一アイテムとなってしまった今でも、マークの残したシンプルなブギは’70年代のあの頃と全く同じようにカッコ良く光り輝き続けている。

このボラン ブギを手っ取り早く追体験するには『T.レックス グレイト ヒッツ』が最適だ。このアルバムは、T.レックスの全盛期である’72年に発表されたシングル盤を中心に収録されているが14曲中12曲がヒット・シングルのA・B面という凄まじい一枚。マークは基本的にシングル盤とアルバムの制作について明確に境界線を設けていて、シングル ヒットをむやみやたらとアルバムに収録するのを避けている。そのため、T.レックスのアルバムには大ヒット曲が入っていないというケースが、実はかなりある。

例えば「20th Century Boy」や「Solid Gold Easy Action」等は、マークの死後発表されたベスト盤にこそ収録されているが、マークの本人の意思で発表されたアルバムの中では、唯一このアルバムにしか収録されていない。タイトルを『グレイテスト ヒッツ』にするアイディアもあったが、マークは“自分は今後もっとすごいヒット曲を作るから”と言って、最上級の表現を使わせなかったとも言われている。



 『GREAT HITS/グレイト・ヒッツ』
1. Telegram Sam 
2. Jitterbug Love 
3. Lady 
4. Metal Guru 
5. Thunderwing 
6. Sunken Rags 
7. Solid Gold Easy Action 
8. 20th Century Boy 
9. Midnight 
10. The Slider 
11. Born To Boogie 
12. Children of the Revolution 
13. Shock Rock 
14. The Groover







浦沢直樹『20世紀少年』/「20th Century Boy」
(20世紀少年/ビッグコミックス 全22巻+21世紀少年 上・下)

タイトルは本文で登場した「20th Century Boy」の直訳だろう。
主人公が何かを変えようとして、何かが変わるんだと信じて、このT.レックスのシングル盤をお昼休みに放送室でかけるところからこの稀代のドラマはスタートする。単行本の第19巻にはなんと、縮刷版ジャケットに包まれた「20th Century Boy」のミニCDがおまけについた。
しょっぱなから炸裂する印象的なリフは、かのヤードバーズの「ブギウギ列車夜行便(Train Kept A Rollin')」、ザ ローリング ストーンズの 「サティスファクション」 、ディープ パープルの 「スモーク オン ザ ウォーター」 等々と並び、ロックが生んだ最強のメロディの一つであるといわし亭部長は思う。










『BORN TO BOOGIE』(1972 英)


’72年3月18日、ウェンブリーでの昼夜のステージからの爆裂映像、ロンドン アップル レコードの地下スタジオでのリンゴ・スター、エルトン・ジョンを交えた「チルドレン オブ レヴォリューション」セッションの模様、その他、バカみたいな悪ふざけのシーンがだらだらと排泄されるフィルム。監督のリンゴ・スターがいかに人柄とラッキーだけで音楽業界を渡ってきたかが、実証される内容になっている。

しかし、T.レックスの演奏シーンだけを取り出すと、的確なカメラ アングルの妙もあいまって不埒なまでの素晴らしさである。このあたりはビートルズ時代に映像に慣れ親しんでいたリンゴの面目躍如という感じがする。特にこの時代に音楽と映像がシンクロして撮影されていたというのはもはや奇跡に近いのではないか。そしてここでのT.レックスは絶好調! 実際、上手いのだ。少なくとも何を演奏しているのか判らなかったとまで評された半年後の日本武道館でのライヴのイメージは微塵もない。

T.レックスがギター、ベース、ドラムに専属のパーカッショニストを加えた変則的な編成を取っていたことは、特筆すべきことだと思う。’68年にフォーク ギターとパーカッションという独自の編成(同じ時期の日本で全く同じ編成の頭脳警察がデビューしていたことは何だか因縁めいていて面白い。両者の音楽性は天と地ほども異なるが…)でティラノザウルス レックスとしてデビューした時点からそのアイデンティティは際立っていたが、音作りという点にとどまらず、映像的に見ても実に面白い。

当然だが、曲は’72年時点のもので、いわし亭部長としては、その後の作品にも大好きな作品が多いのでやや物足りなかったことは否めない。一般にT.レックスの全盛期は、最初の来日を果たした’72年前後と言われているが、’68年のデビューシングル「DEBOLA」から遺作となったアルバム『地下世界のダンディ』まで、マーク自身は非常にコンスタントに名曲、佳曲を発表し続けていると言えるのである。 









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