2013年6月28日金曜日

ロックが持ち得た最も濃厚な一年~セックス ピストルズから有限会社パブリック イメージへ


デニス・モリス デザインによるロゴ マークを配したTシャツ


5月に京都で映画を見た際に、受付のお姉さんに “ ピー アイ エル お好きなんですか? ” ( PiL こと Public Image Ltd./有限会社パブリック イメージ は、最新アルバム 『 This is PiL 』 の中で、ジョン・ライドン本人にピルと歌われているが、いわし亭は ピー アイ エル と呼ぶのに慣れているため、ピルと発音することには、結構な違和感がある ) と声をかけられた。理由は至極簡単で、PiL のロゴが入ったTシャツを着ていたからだ。
ある意味、PiL という記号を共有できるロック ファンは今時、希少といってもいいかもしれないし、だからこそ、お互い初対面でありながら旧知のように同じバンドの話題で盛り上がれるのは、共同戦線を張る戦友を見つけたようで、うれしくもある。
では、そもそも PiL とは何なのか?

半世紀を超える歴史の中で、ロックは大きな節目を三回迎えている。この説には異論も多々あるかとは思われるが、歴史的な連続性が非常に分かり易いので、いわし亭はこの説を支持している。
1969年9月26日 ビートルズがラストアルバムである 『 アビイ ロード 』 リリース
1969年10月10日 キング クリムゾンがデビューアルバム 『 クリムゾン キングの宮殿 』 リリース
1975年4月25日 第一期キング クリムゾンがラストアルバムである 『 USA 』 リリース
1975年11月6日 セックス ピストルズがセントマーティンズ カレッジ オブ アートで最初のギグを10分間、行う

こうしてみると、ビートルズ、キング クリムゾン、セックス ピストルズという時代のエポックが、バトンを受け渡すように連続的に起こっていることが分かる。一つの流れとして、レガシーなロック→プログレ→パンク というロックの歴史が垣間見えて興味深い。

このエポックではあったが短命だったセックス ピストルズが、全米ツアー半ばにして空中分解した後、そこでヴォーカルを務めたジョニー・ロットンは、個人的な資質からレゲエ、ダブ ( シングル盤のB面のカラオケを作る際、リズムトラックを過剰に強調してミキシングし、さらにエコーやリバーブをトリートメントするレゲエ メソッドの一つ。ジャマイカで機械に強かったキング・タビーがはじめ、英国のエイドリアン・シャーウッドがひとつの音楽ジャンルに大成した ) に傾倒、そこに志向を同じくする友人ジャー・ウォブル ( ベース ) 、キース・レヴィン ( ギター ) が加わることで恐るべき化学反応が起こり、突然変異のように PiL が生まれた。PiL は、ポスト パンクがニューウェーヴへ向かう中でも最も重要なユニットのひとつである。

パッケージの常識を破った缶入り、3枚組 45回転レコードで構成され
た『Metal Box』(1979年11月)。
このような変則的なリリースをレコード会社がすんなりOKするはずもな
く、製造費用27000ポンドの内、缶の代金20000ポンド(当時のレー
トで何と9000万円!)は、PiL側の負担になった。ジョンはこの借金の
返済に18年もかかった。

1979年、当時愛読していた 『 週刊FM 』( 音楽之友社 1971年-1991年) に、こうしたイギリスの状況を現地から特集した水上はる子さん ( 『 ミュージックライフ 』 の 1974年から 1978年までの編集長 ) の記事が載っていて、いわし亭は初めてこのあたりの情報に接するのだが、曰く、“ 従来の音楽フォームを解体したノイズとしか表現できないサウンド ” 。実際の音に接する機会のなかった片田舎の青年にしてみれば、どんな音なのだろう と想像を膨らませるしかなかったわけだが、切望していた音が聴けたのは、その2年後である。
映画のフィルムを収めるような金属の缶に 45 回転 12 インチシングルが 3枚納められたセカンドアルバム 『 Metal Box 』 。同じく 『 週刊FM 』 の記事には、ジョン・ライドンがハイエンドなオーディオマニアであることが明記されている。45 回転 12 インチシングルにこだわったのは、当然ながら音質の追及のためであり、現在入手可能なリミックスCD でさえこのアナログ盤のベースの重低音には到底及ばない。
初めてこのアルバムを難波の輸入盤屋の棚で見つけた時は、その異様な雰囲気がタダならぬものを感じさせた。音楽誌の“探しています”的なコーナーで書かれていた“缶に入ったビシっとしたやつよろしく” という文言の意味が、そしてそのアルバムの命名の由来がその時、初めて分かったのだった。

セックス ピストルズの衝撃は、まずヴィジュアルにあった。今や世界的なデザイナーとなったヴィヴィアン・ウエストウッドは、安全ピンや鋲といった SM の要素を採り入れた前衛的なファッション スタイルでバンドを武装した。
マルコム・マクラーレンは、1974 年の渡米時にニューヨーク ドールズに関わった経験と当時、ニューヨークのアンダーグラウンドで萌芽したNYパンクの熱気を英国に持ち帰り(例えば、テレヴィジョンのリチャード・ヘルの短く逆立てた独特のヘアスタイル、破けたメッセージ シャツ など)、仕掛け人としてバンドのサウンド面をプロデュースする。ちなみに当時、ウエストウッドとマクラーレンは夫婦だった。
強烈なビートやノイズを伴うシンプルだがメロディアスな 3コードのロックとボンデージ ファッション。この二つが絶妙に絡み合いセックス ピストルズとして具象化された時、閉塞感の強かったイギリスの社会状況に不満を持つティーン エイジャー達は、それを全く新しいカルチャーとして歓迎し、社会現象になるほど熱烈に支持した。音楽とファッション。このキーワードがこれほどまでに合致したムーヴメントは、ビートルズやローリング ストーンズ、ザ フーの活躍した、1964 年頃のブリティッシュ インヴェイジョン以来のことではなかったか。
そして、そのフロントマン 腐れジョニーことジョニー・ロットンは、稀代のカリズマとなった ( 1986年に創刊されたイギリスの一般的な音楽雑誌 “ Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な 100 人のシンガー ” において第 16 位 )。



手の甲が隠れるほど長い袖のガーゼ Tシャツを着て、マイク スタンドにしなだれかかるようにだらしなく、しかし怒りに燃える目つきで凶悪に歌うジョニー・ロットンの姿 ( ジュリアン・テンプル監督作品 『 ザ グレイト ロックンロール スウィンドル 』 など ) は、一目見たら決して忘れられないものだ。単語の一音一音を奇妙に誇張し、巻き舌でまくしたてる発声法や美声には程遠い鼻声も、従来のヴォーカリストにはないもので、それもまたパンク ロックのヴォーカリストのスタンダードとなった。その後、パンクはジョニーのエピゴーネンばかりになり、リスナーはおろかジョニー本人もすっかり辟易する羽目になるのだが。

1978 年 1月 14日 サンフランシスコ、ウインターランド公演後に、ジョニー・ロットンはバンドからの脱退を示唆し、“ ロックは死んだ。だがポップは生きている ” と語った。この場合、“ ロック ( の再生を目指したセックス ピストルズ ) は死んだ。だが、ポップ ( が好きなジョニー・ロットンは ) 生きている ( から、しぶとく音楽は続けるぜ ) ” と理解するべきなのだろう。
米国の雑誌 “ ローリング ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な 100組のアーティスト ” において第 60位に選出された稀代のバンドのフロントマンという立場を捨て、自らの声明に準ずるように腐れジョニーは本名のジョン・ライドンを名乗り、PiL の結成に向かう。だが、PiL の特殊な音楽性を理解するためには、まずジョン・ライドンがいかなる人物なのかを紐解く必要がある。

英国におけるアイルランド移民は、黒人同様、最下層に近い差別を受けていた。またジャマイカをはじめとするカリブ地域からの移民もまた、人種的な差別を受けた結果、貧しい生活を強いられており、彼らはお互い通じ合うところが多かった。アイルランド移民にとって、ジャマイカの文化、特にその音楽は耳に馴染んだものであった。
社会への不満を訴える労働者階級から多くのパンクスが生まれ、彼らが音楽を武器に闘おうと考えた時、1975 年以降のクリエイティヴなジャマイカ音楽が得意としたダブの実験的手法やラスタの自然回帰的な思想を選択したのは半ば必然だったのだ。パンクスとイギリスのレゲエ アーティスト達は、人種は違っても問題意識は共通しており、それが大きな連帯となって、ジョイント ツアーさえ行うようになった。例えば、ストラングラーズやビリー・アイドルを擁したジェネレイションX はスティール パルス、イアン・デューリーはマトゥンビ、エディ & ザ ホット ロッズはアズワッド というふうに。

アイルランド移民の両親のもと 1956 年1 月 31 日にロンドンのフィンズベリー パークで生まれ、三人の弟と貧しい労働者階級の中で成長したジョン・ライドンにとってもまた、ジャマイカの音楽や文化は身近な存在であった。1994 年に出版されたジョン・ライドンの自伝は、ロッキングオンから 『 Still a Punk 』 というタイトルで日本版が出ているが、本来のタイトルは 『 No Irish,No Blacks,No Dogs/アイルランド人、黒人、犬はお断り 』 である。
セックス ピストルズはストレートなパンク バンドであったが、脱退したジョン・ライドンが次に向かったのがダブやレゲエであったことには、彼の背負っていた社会的背景と密接な関係があったのだ。

パンク ロックからポスト パンク、ニューウェーヴへの一連のモーヴメントの中で、なぜ彼らがジャマイカの音楽を積極的に取り入れたのか? は、いわし亭にとっても、長年、疑問であった。こうして、インターネットで当時の重要人物の発言やインタヴューが簡単に読めるようになって、正に目からうろこの落ちる思いである。
パンクスやレゲエのミュージシャンの唄は、自分を取り巻く不快でしかない環境を破壊しようとする切実な叫びであった。まず現状を変えて行こうとする強い意思があり、音楽は手段でしかなかったのだ。わずか数年で、パンクが単なる産業音楽の一スタイルに堕し、その表層だけがつまみ食いされていく歴史は、正に痛恨以外の何物でもないが、それでも 1975 ~ 1979 年当時の英国の音楽シーンには、非常に魅力的な瞬間があったことも確かなのだ。

ジョン・ライドンはセックス ピストルズを脱退後、当時のヴァージン レコードの社長 リチャード・ブランソンとジャマイカに出かけている。センスあふれるレゲエ リスナーであったジョン・ライドンに目をつけたブランソン社長が、ジョンにヴァージン レコードの A & R ( Artist and Repertoire : アーティスト アンド レパートリー/アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当する。実際にはそれだけでなく企画、制作、宣伝に至るまでレコード会社の業務全般に幅広く責任者として携わるポジション ) としてジャマイカに同行するようオファーを出したのだった。このコラボレーションをきっかけに、1978年 ヴァージン レコード内に 『 フロントライン レゲエ レーベル 』 が設立されたのである。

このジャマイカ行きには、ドン・レッツとデニス・モリスという二人の伝説的な人物も一緒だった。

手前の人物こそドン・レッツである
ドン・レッツ : パンクとレゲエの重要な橋渡し役のひとり。両親ともにジャマイカ出身だが、自身はロンドン生まれのジャマイカ人 第一世代である。彼はこの時、初めてジャマイカに渡航したが、“ 当時の俺がジャマイカについて知っていることのすべては、映画 『 ハーダー ゼイ カム 』 だけだったよ。で、ジョンの誘いに乗ってジャマイカに行ったんだが、驚嘆すべき経験だったね。俺の < レゲエ ヒーロー > たちに、直接会えたんだから ! ” と語っている。
セックス ピストルズに拮抗するもう一方の雄 ザ クラッシュ ( “ ローリング ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な 100組のアーティスト ” において第 28 位 ) の全てのビデオ クリップを手掛けており、彼らとの仕事で特に大きな実績を残している
ドン・レッツが 2006 年に出版した 『 CULTURE CLASH : DREADS meets PUNK ROCKERS 』 には、当時のジョン・ライドンに関する興味深い記述がある。

“ オレとジョン・ライドン、ジョー・ストラマー、そしてスリッツのアリ・アップ ( 後にライドンは彼女の母 ノラと再婚した ) は、ダルストンのレゲエ クラブ < フォー エイセズ > でよく時間を過ごした。スピーカーが天井まで積み上げられた狭く暗い場所だったけれど、そこではガンジャと酒、熱気、低音のコンビネーションを愉しんだものだ。< フォー エイセズ > は、イギリスのレゲエ クラブの中でもハード コアなクラブだったから、白人はジョンとジョー、アリ・アップぐらいしかいなかった。だからこそ彼らはリスペクトを集めたんだ ”
件のレゲエ クラブ < フォー エイセズ > はおそらく、普通の白人では到底入れない雰囲気の場所だったのだろう。異邦人であった彼らにとって、このハード コアなクラブは居心地の良いところだったようだ。

ジャンルを問わず、このアルバムをオールタイ
ム ベストに挙げるリスナーは多い
デニス・モリス : 小学校の最後の年に、初めて英国ツアーに来たボブ・マーリーに直訴し、公式カメラマンとして唯一、撮影を許された。その二年後、ボブ・マーリー自身、最高の出来だったと自負する1975年のライヴを収めたボブ・マーリー アンド ザ ウェイラーズ 『 Live! 』 のジャケット写真を撮影する。
レゲエ ファンであったジョン・ライドンが、デニスが撮影したボブ・マーリーの写真を見て、デニスに興味を持ち、連絡を取ったことから、セックス ピストルズとの関係も始まり、ジョンについては私生活を含め、PiL 結成以降の活動も引き続き撮影した。オリジナリティあふれる PiL のロゴ マークやレコード ジャケットなどを共同製作している。

デニス・モリスの語る PiL 前夜に当るこのジャマイカ旅行の模様は、なかなかスリリングな示唆に富んでいる。
“ ジャマイカに着いた瞬間は、現地のジャマイカ人がジョン・ライドンを見て < ピストルズのジョニー・ロットンだ! > って大騒ぎだったね。現地では、ビッグ ユースとかマイティー ダイアモンド、U-ROY、グレゴリー・アイザックスとか、数々のアーティストに実際に会って、ヴァージンとの契約をしたよ、あとリー・スクラッチ・ペリーのスタジオにも遊びにいったしね。
当時のリアルなジャマイカのダブやレゲエの音楽を聴いて、ジョン・ライドンもすごい感化されて、それが PiL っていう新しいバンドを考えるきっかけになっているんだ。このバンドのサウンド メイキングには、ダブの要素が相当強いんだけど、それはこの時、ジャマイカに行って得た影響が一番大きいと思うね。このジャマイカ ツアーを終えて、ロンドンに戻る時、既にジョン・ライドンの頭の中には新しいバンドのことがあったんだ。そして彼は、ベースのジャー・ウォブルとギターのキース・レヴィンをピッ と思い浮かべたんだよ” 

1978年12月、ジョン・ライドンはついにファースト アルバム 『 PUBLIC IMAGE 』 をヴァージン レコードから発表する。ところが、一般的なリスナーにとって、レゲエやダブの先鋭的なサウンドはやはり理解し難く、このアルバムは発表当初、決して商業的に成功したとは言えなかった。
しかし、いわゆるティーン エイジャーのカリズマであったジョン・ライドンの影響力は決して小さくはなく、レガシーなロックに固執していたリスナーが、全く新しいサウンドにチャレンジする機会を提供したことの意味は大きかった。リスナーにとってのポスト パンクの胎動もまた、このアルバムから始まったと言って良い。




パブリック イメージ 

1. テーマ

2. レリジョン I
3. レリジョン II
4. アナリサ
5. パブリック イメージ
6. ロー ライフ
7. アタック
8. フォダー ストンプ



ジョン・ライドンの鼻声、ジャー・ウォブルのダブ由来の地を這う重低音のベース、キース・レヴィンの神経質でひっかくような不愉快なギター ノイズ。これらが混然一体となって、レガシーなロックへの死亡宣告がなされた。ジョン・ライドンは自らの出した声明に忠実に “ ロックは死んだ ” ことを示して見せたのだった。その破壊力たるや凄まじく、シンプルな先祖返りでしかなかったパンク ロックは、ポスト パンクの時代へと突入させられる。それは後にニューウェイヴ/オールタナティヴと総称され、多様なスタイルを模索する実験的なムーヴメントとして認識された。
彼らは先鋭的な音楽センスを持ってはいたが、決して天才的なミュージシャンとは言い難かった。そうした彼らが何故、このようなラジカルで革新性に満ちた音楽を創造しえたのか。PiLとは時代の希求した必然であったのか?



ジョン・ライドン、ジャー・ウォブル、キース・レヴィン。三人三様に、触れれば切れるほど研ぎ澄まされ、ヒリヒリした感覚が閉じ込められた傑作 PV。このような PV が、自由に閲覧できるとは本当に良い時代になった。そして、今だからこそ、この先進性もまた理解できるのだ。確かに彼らは 1978 年の時点では早過ぎた。それにしても、この PV での三人は、カッコ良過ぎる。


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2013 年 4月 3日 PiL JAPAN TOUR 2013 @ なんば Hatch


入場の際にボディ チェックがあったりして、1996 年のピストルズ再結成ライヴの時のことを思い出したが、ゼロ年代の今、ライヴ会場にナイフやら危険物を持ち込む様な筋金入りのバカなんていないよ ( 笑 )
セックス ピストルズのインパクトの陰になってしまい不遇を囲っていた PiL であるが、今更ながら結成当時のメンバーは、実はすごかった。ジャー・ウォブル:ベース ( 1980 年まで在籍 ) 、キース・レヴィン:ギター ( 1983年まで在籍 ) 。彼らは後に、喧嘩別れしてしまうわけだが、初期の最も PiL らしいと言えるサウンドづくりにおいてこの二人の貢献度は半端ではなく、ジョン・ライドンはむしろただのヴォーカリストでしかない と言う感じすらする。
日本でのライヴが決定した直後にキースが抜けてしまい、1983 年以降の PiL は、ジョンのソロ プロジェクトの趣きとなるわけだが、実際つまらない。いわし亭も当時の大阪厚生年金会館大ホールで行われたライヴには相当迷ったのだが、結局、行かなかった。熱心に聴いていたのは、キース・レヴィンの自主制作リリース盤 『 Commercial Zone 』 とその別ヴァージョンともいえるジョン・ライドン版メジャー作品 『 This is what you want, This is what you get 』 ( 1984 年 7 月 ) までである。

今回はライヴ参加のことがあったので、最新アルバム 『 This is PiL 』 を聴き込んではいたが、このアルバムは音そのものにスリルが感じられない。音に何物をもなぎ倒すような強靭な意思が感じられず、さらりと通り抜けて行ってしまうし、歌われている内容も今一つ、ぴん と来ないのだ。
現在の PiL は、ギター : ルー・エドモンズ ドラム : ブルース・スミス。彼らは 『 Happy? 』 ( 1987年 ) の頃、在籍していたメンバーで、元ダムドと元ポップ グループ。ベースのスコット・ファースはセッション ミュージシャンとしてスティーヴ・ウィンウッドやエリヴィス・コステロのバックを務めていた。従ってメンバー的には、かなり豪華なはずなのだが、見ている分にはいわゆるおやじバンド的な風情が濃厚に漂う。
ルー・エドモンズは、ひげとサングラスで有名な ZZ-Top みたいなルックスで、エレキ ウードとでもいうべき変な楽器やバンジョーを弓で弾く、セミアコ、ストラトキャスターと楽曲ごとにギターを変えている。スコット・ファースはジャー・ウォブルを彷彿させる地を這うようなベース。これはセッション マンだった関係で、いとも簡単にコピーしている感じ。ブルース・スミスは 2011 年のサマーソニックの時は、PiL とポップ グループとの掛け持ちだった。手首を固定して使わない奏法で、ジャストではなく微妙にスネアのタイミングがずれており、このズレが面白い効果を生んでいた。

注目のジョン・ライドンは、ピエロの衣装のような真っ白のだぶだぶの服に赤い上っ張りで体型をごまかしていたけれども、太鼓腹は一目瞭然で、まるで巨大なダルマ状態。外人はやっぱ太りやすいなぁ と感じた。ライヴ中、やたら股間に手をやるのだが、その腕が腹につかえている感じが物凄く嫌だった ( 笑 )  一曲歌い終わる度にウガイをして、傍らの容器に吐き出しては、鼻の穴を抑えて鼻水を抜いていて、その様子がいかにもパンクな英国人と言う感じで、きったなくて可笑しかった。
学生の頃、渋谷陽一がNHK-FMの 『 サウンド ストリート 』 で、“ 人類にとって、風邪をひいている状態こそが実は、普通の状態ではないのか ” と、そして “ ジョンライドンの鼻声は、もはや世界遺産的に偉大なのだ ” と話していたのを思い出した。
確かに、何を歌っているにせよ、この鼻声のアイデンティティは絶大であり、これだけで一芸になっているなぁ と感じた。奇妙な振り付けで、踊りながら唄うデブなじいさんになったジョン・ライドンでも、この声色の説得力はいまだに健在だった。初期の曲については完全コピーって感じで、バックのメンバーも黒子に徹していて良かった。
ネットに拠れば、2004 年に英国 ITV のリアリティ番組 『 I’m A Celebrity Get Me Out Of Here 』 に出演したジョン・ライドンは、ほとんどお笑い芸人と化しており、その後もアンチ ヒーロー然としたかつてのジョニー・ロットン像を破壊し続けている ( ファンの幻想を裏切りまくるというのは、ある意味、これこそパンクだ ! ) とのことで、そう考えるとこのステージングにも納得させられた。

セット リストは、一曲目が一番好きな 『 フラワーズ オブ ロマンス 』 から 「 フォー アンクローズド ウォールズ 」。二曲目が 『 メタル ボックス 』 から 「 アルバトロス 」 ということで、いきなり結構、高揚した。そこからは新譜中心だったが、終盤にはファーストから 「 パブリック イメージ 」 「 Death Disco 」 (1979年6月 2枚目のシングルとして発表された。同曲のミックス違いが 「 Swan Lake 」 というタイトルで 『 Metal Box/Second Editon 』 に収録 ) も披露される。残念だったのは、一見、バディ・ホリー編成の極く普通のバンドであり、意外に音が小さくて、音圧があまりなかったこと。空気の震えるようなベースの振動は凄かったが ( 苦笑 )。

少し物足りない感じが残ってしまったライヴではあったが、地獄の季節を生き抜いたツワモノ達の帰還は、それなりに感慨深いものであり、けっこう楽しめたな、このライヴは。
アンコール後のメンバー紹介で、ジョン・ライドンは自分自身をジョン・ヴァジャイナと紹介した。ガキか(笑)







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