2013年9月10日火曜日

山口冨士夫さんの訃報に接して~神に愛されたギタリスト ( 後編 )

~日本のロック黎明期に強烈な爪痕を残した破天荒なアーティスト 山口冨士夫さんを偲んで~


裸のラリーズ
  ~現在のノイズ シーンを見渡しても別格 他に類を見ない史上最強のノイズ ギター


山口冨士夫とチャー坊が交流を深め始めた頃、その仲間に裸のラリーズのリーダー 水谷孝がいた時代がある。そもそも、チャー坊と水谷は古い知り合いで、チャー坊は裸のラリーズでベースを弾くために京都に舞い戻ったのだった。
裸のラリーズを名乗っていた水谷をチャー坊を含めた山口冨士夫グループがサポートしたこともあり、このあたりの経緯はなかなかややこしい ( 苦笑 ) 最終的には、チャー坊と山口冨士夫は自らのバンドを村八分と命名し、水谷は裸のラリーズとしてバンド活動を存続させることで決着を見た。

その水谷も前出のチャー坊の追悼コンサート 『 ライヴ! フォーエヴァー チャー坊 首吊りの舞踏会 』 ( 1994年 7月 10日 ) には駆けつけた。いわし亭が動いている裸のラリーズを見たのは、後にも先にもこの時一回限りである。演奏されたのは 「 造花の原野 」 「 黒い悲しみのロマンセ 」 「 白い目覚め 」 「 夜より深く 」 「 Enter The Mirror 」 「 THE LAST ONE 」 などであった。

裸のラリーズのサウンドの特徴は、水谷のフィードバック奏法から発せられる常軌を逸した大音量のノイズにある。特にライヴでは、この傾向が著しく増幅され、激しい轟音や音割れ、エコーにより水谷が何を歌っているのかはほとんど判らない。

実際、初体験のいわし亭にはかなり厳しい内容で、聴感上はただただギター ノイズの洪水であり、初夏の蒸し風呂のような京都大学西部講堂内はさながら阿鼻叫喚の地獄と化した。三半規管がやられたらしく、いわし亭はまっすぐ歩けなくなるほどのダメージを被り、ほとんど酩酊したような状態に陥ったことしか覚えていない。そもそも、“ ラリ ” と言う言葉自体、そういう状態を意味しているのだ。

ところが、この強烈な酩酊状態を生み出すノイズの洪水は、録音そのものに大した注意の払われていない集合ライヴ盤 ( 最近、たくさん見かけるようになったが、粗製乱造との印象は免れない ) では、その効果が全く再現出来ていない。いわし亭の参加した追悼コンサートもブートレグで確認すると、むしろ聴きやすいものになっていて、ひどい違和感がある。
水谷が裸のラリーズのCDを発表するのに神経質になっているのは、デジタル化のプロセスにおいて、ライヴで体感できる破壊的な音圧が消滅してしまうからである。水谷が製作全てのプロセスに関わって公式に発売された3枚のCDだけが、裸のラリーズのライヴをリスニング ルームで追体験させてくれる。

代表曲は「夜、暗殺者の夜」。しかしこの曲、共通するのは印象的なリフと歌詞だけで、ライヴごとにその表情を変え、イメージも演奏時間も極端に異なる。裸のラリーズがスタジオで録音した通常の音源は比較的ノーマルなものではあるが、これは楽曲のいわゆる骨格だけを提示したものである。裸のラリーズの本質は楽曲を解体し、再構成する中で変幻自在に趣きを変えるライヴにある。

山口冨士夫の参加は 1980年 8月 14日 渋谷・屋根裏でのライヴから 1981年 3月 23日 渋谷・屋根裏でのライヴまでの約半年間で、いずれもブートレグが存在する。この時期の裸のラリーズは、水谷との双頭バンドとして活動しており、注目の音源としては 9月 4日~ 9日まで、東京・国立のマーズ スタジオで行われたレコーディング セッション。当然のことながら非常にクリアな音質で、独特の緊張感を保ちながらも、山口冨士夫が持ち込んだブルージーなフィーリングやスタジオ トラックとしては非常に高い完成度で聴かせる 「 夜、暗殺者の夜 」 がレコーディングされており、結果的に正式なリリースがされていないのが残念だ。

少し冗長になるが、水谷孝 ~ 裸のラリーズとの邂逅については、山口冨士夫の自伝 『 So What 』 ( JICC 出版局 1990年 8月 1日初版 ) で詳細に語られているので、引用したい。

水谷から久しぶりに連絡をもらったんだよ。 「 レコーディングをしようぜ 」 て言うんだ。 “ きたな! ” ってオレは思ったよ。 村八分の次はラリーズかってね。たんなる思い込みかもしれないが相手にとって不足はないって感じだったな。

当時のラリーズって少し白日夢みたいなところがあってね。聞きに来る客も黒づくめのガキばっかりだった。客も黒ければステージの上も真っ黒さ。演奏が終わっても拍手のひとつもありゃしない。全員がただそこにいるだけ。ただ、漂ってるだけなんだな。ただ、超アンダーグラウンドだったんだ。時代は ’80年代はじめだぜ! 世間の動きはニュー ウェイブ真っ盛りさ! なんでこんな時にこんな黒いバンドが存在するんだろうってね、正直言ってワクワクしたよ(笑)

ラリーズはまさに水谷のワンマンバンドだった。昔からそうだが、ヤツの常にその時代を無視した黒づくめのアプローチそのものが、水谷自身の姿だったんだ。だからオレはその対極をやってやろうと思ったね。そんなインスピレーションが自分の中に出来上がった時、オレはごく自然にラリーズの中にいた。

ラリーズに入って三カ月ぐらいはスタジオにこもってね、例のレコーディングとやらに参加していたんだ。
水谷もオレも音の中で生活してたってカンジだね

とくに法政 ( 大学 ) でのステージの動員はすごかったね。だけどさ、おかしなことにね、オレが入ったせいで、客の黒づくめの中にカラフルなヤツが目立ち始めたんだ。バンドってのはおもしろいもんだって思ったよ
水谷のギターって、基本的にはファズがギンギンの一見 “ デタラメ ” ギターなんだ。それにオレのギターがどう絡んでいくかが、これが誰しも興味シンシンってとこだろ? ( 笑 )  オレ自身も興味があったし、楽しみでもあった。きっとラリーズがそれまで演ってきた音の中で、オレが入った時の音が一番ポップだったんじゃないかな? 
一曲の演奏が四十分に渡る時もあったし、二時間のステージが一曲で終わっちまうこともあったよ。だけどこれは自分たちのショウだしね、オレたちにはやりたいことがあったんだよ。だから、それに賭けて、思い切りワガママにやってた。客なんかメじゃなかったね。好きで見に来てんだろ? ってなカンジさ!


バンド周辺のやつらが水谷サマサマだし、オレとはウマが合わなかった。一年も一緒に演ればいろいろなものが見えるしね。だからさ、 ’81年の初めにはもう抜けることに決めてたんだ
ただ、やはりこれだけは言っておきたいけれど、ラリーズのアプローチはすごく真剣なものだった。命懸けっていってもいいほどにね。だからオレは、今でもラリーズにいたことを誇りに思っているよ。村八分もそうだけど、一生忘れられない何かをオレの中に芽生えさせてくれたバンドだからな


間章、阿木譲らが熱心に働きかけたが実際のレコーディングには至らず、また自らが制作した音源も最終的にはお蔵入りしており、何度も作品発表の機会に恵まれながらも、公式音源は水谷がフランス滞在中の 1991年 8月リリースの 『 ‘67-’69 STUDIO et LIVE 』 『 MIZUTANI -Les Rallizes Denudes 』 『 ‘77 LIVE 』 の3枚のアルバムと 1992年 9月リリースの初のビデオ作品 『 Les Rallizes Denudes 』 のみである。


水谷自身の発言 ( 『 裸のラリーズをもっと 』 と題した湯浅学による FAXインタビューが 1991年 11月号のミュージック マガジンに掲載されている。これは先の公式アルバム リリースに伴うものであるが、水谷の発言がかなりまとまって読める貴重なものである ) 、ライヴの回数、公式音源の少なさから、裸のラリーズに関する情報は少なく、“ 幻 ” あるいは “ 伝説 ” といった言われ方をすることが多い。
ただ、 D音源と呼ばれる大量のブートレグが存在し、この中にはかなり音質の良いものも含まれていて、ブートレグ市場では比較的よく見かける。いわし亭も公式アルバムは当然として、こうしたブートレグ ( ブートレグ メーカーの “ UNIVIVE ” から出ている CD、DVDはブートレグとはとても思えない完成度の高いものが多数ある ) も何枚か持っている。
公式記録によればチャー坊の死に遅れること 2年、裸のラリーズは 1996年 10月 4日 川崎 CLUB CITTA’ で行われたライヴを最後に公の場にその姿を現してはいない。
なお、裸のラリーズに関しては決定版ともいうべきウェブサイト 裸のラリーズの代表曲のタイトルを冠した 『 THE LAST ONE 』 が存在する。この記事を読んで、興味を持たれた方はぜひググって欲しい。


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山口冨士夫の誕生日は 1949年 8月 10日 だったから、実はまだ 64歳になったばかりだった。普通ならそれほど老け込む年でもないのだろうが、実際、二年前の暮れに見た山口冨士夫は本当にヤバかった。


2011年12月6日 山口冨士夫 KANSAI TOUR 2011 @なんば BIG CAT



約一週間前の11月27日 吉祥寺 ROCK JOINT GB で行われた外道との対バン


“ 今年で 62歳になりました ” 

MC で冨士夫氏自身がいみじくも語ったように、還暦越えのレジェンドがまた一人、舞い戻ってくれた。世間一般でいうところの  62歳はそれほど老け込む年ではないと思うのだが、稀代のジャンキーであり、酒、タバコ、クスリその他もろもろ、体に悪いこと全部 といった半生で蓄積されたダメージは半端ではなく、“ 結構、集ってんじゃなぁ~い!” そう言いながら、最初、登場した時の冨士夫氏の呂律のまわってなさ は、ヤバさ満点だった。
登壇、降壇の際にはスタッフに付き添ってもらわないといけない程のヨロヨロの状態であり、ステージでこのまま死んじゃうんじゃないか と思ったくらい不安満載のスタートだったのだ。

東芝EMI からティアドロップスとして再デビューしたのは 20年前、40代前半でその頃の冨士夫氏のシャープなたたずまいは、まさに男盛りという言葉がぴったりで、文句なくカッコ良すぎた。
演奏が冴えていれば、後は何をしたって構わないんだー といった傾奇者を地で行く冨士夫氏に関しては、開始が 1時間も押した心斎橋クラブクワトロ ( 1992年 4月 16日 ) とか、山内テツ ( 元フリー、元フェイセズ ) & チコ・ヒゲ ( 元フリクション ) という究極のリズム セクションを従えながら、ベロベロに酩酊していて演奏できなかった京都大学西部講堂 ~1992年 8月 16日 場所が場所だけに思い入れのある聴衆が多かったようで、なんとステージに投石が始まり、一番前で見ていたいわし亭は、おお! アブねえ! 今っていったいイツなんだ??? と思った ( 苦笑 )  “ 短歌絶叫コンサート ” と称する朗読パフォーマンスで知られる福島泰樹も出演しており “ きさま 西部講堂なめてんのかぁ! ” とまさに絶叫 ~ といった事故 ( 笑 ) がなんとも印象深い。
今回も 25分押してのスタートではあったが、こんな程度か と逆に思ったくらいのもので、演奏前の嫌な予感は外れたのである。

メンバーは P-Chan ( G:ブルースビンボーズ ) 、中嶋KAZ  ( B:元ティアドロップス、元フールズ)、安藤ナオミ ( D:THE TRASH ) のフォー ピース。ステージで死ぬんじゃねえのか と思うほどのくたびれ方にもかかわらず、ギターを構えて、ギュウウウ~ン と一音出た瞬間から、冨士夫氏の全キャリアが、このステージでフラッシュ バックし、熱心な中耳炎患者のいわし亭は、その音の一つ一つに唸らされてしまうのだった。
ステージ サイドに品の良い紳士然としたおじいさんがいるなぁと思っていたら、村八分の三代目のドラマーであったカント氏 ( 渡辺作郎 ) で、途中の数曲、安藤ナオミに代わってドラムを叩く。冨士夫氏もとても嬉しそう。
今は亡きチャー坊の分も併せて、村八分のナンバーもヴォーカルを取る冨士夫氏にはある種、神憑り的なムードさえ漂う。あれだけ情けない風情の人間が、ギターを構えた途端、別人に ~つまりは音楽の神が憑依するのだろう そうとしか思えない~ 生まれ変わるというのは、正に奇跡を目の当たりにしているに等しい音楽の世界だけに特有の瞬間だ。この瞬間を体験できるというのは、正にファン冥利に尽きるというものである。

やはり、この人はこの年齢になってなお、コンディションさえよければ、まだまだギタリスト日本一を争える実力者であると確信する。



山口冨士夫自身の口で語り下ろされた自伝。
オリジナルの JICC 出版局からの発行は1990年 8月で、ここで紹介するのは 2008年 4月に K&B パブリッシャーズから再発された新装版である。今回新たに特典として追加された DVD も意外や意外あなどれない内容だ

山口冨士夫が 40代に入った頃のインタヴューなのだが、幼少期に始まり、GS バンドのダイナマイツを経て、村八分、裸のラリーズ当時のヤバさ満載のエピソードの数々が、赤裸々に語られており、その面白さは群を抜いている。
実際、ドラッグ経験者しか知りえないような感覚的内容が随所に登場し、その是非は別にして、ドラッグと音楽との深い関係に思わず頷かざるを得ない迫真力がある。

写真も多数収録されており、傾奇者を地で行っていた村八分時代の妖艶な姿や、仲間 ( あの忌野清志郎とのツーショットも! ) に囲まれてリラックスしている冨士夫、インタヴュー当時の最高にカッコいいドレッドヘアーの雄姿、等々が目を引く。
山口冨士夫以降、ギターを構えてこれほど様になったギタリスト オブ ギタリストをいわし亭は知らない。この気配は還暦を迎えてなお、彼が維持し続けたものであり、その雄姿が実はもう見れないという冷徹な事実には、今さらながら信じがたい気分になる。

再発するにあたって新しく起こされた言葉には、

“  「 いまだにこの本を読みたがってる人がたくさんいるんだ 」 と聞いていたオレは、もちろん快く承諾した。それにこの本は面白い上に為になる。読むたびにクスクス笑える。このオレ自身がだ。バンドマンはもちろん、そうでない人にも、ずいぶん喜んでもらえてるようだ ・・・ あの9・11あたりから、もう異常としか思えない変わりようだ。多分に世界がとんでもなく収拾のつかない状態になっているってのが、ホントのところかもなぁ ・・・ そんな時代だから、せめて誰かの何かのキッカケにでもなればいい。まあ、クールに突き放して読んでくれたらオレとしても有り難く、嬉しく思う ・・・ どうやら神様がいたずら好きだから、オレはまだまだたくさんお仕事をしないと、あちらへは行かせてくれないらしい。だったら、いろんな人と、本当につながっていこうじゃないか。オイ! いい加減、オレたちの本来ってやつを取り戻しにかからないか? 君の本当の友達 フジオより、複雑な思いをこめて…。とにかく元気でいてくれ ”

とあり、この本がこれからますます、必要とされていくであろうことも暗示されている。
あちらへ行ってしまった山口冨士夫は今頃、村八分の仲間 チャー坊や哲ちゃん、ボ ガンボスのどんと、キヨシローたちと、いつものように決めて、ぶっ飛ばしていることだろう。


山口冨士夫さんの訃報に接して~神に愛されたギタリスト ( 村八分 編 )



山口冨士夫ドキュメント映画、公開日程&予告動画解禁(2014.07.09 追加)









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