2014年2月25日火曜日

いわし亭部長とフランシーヌ千里部員の音楽放談 ~ いわし亭の私的ロック概論 ( 1 ) 演奏しないミュージシャン 唄わないヴォーカリスト

第17回目 テーマ:いわし亭の私的ロック概論 ( 1 ) 演奏しないミュージシャン 唄わないヴォーカリスト


ご無沙汰しております。フランシーヌ千里です。

みなさんお元気ですか?

私はめずらしく、今年に入って2回の風邪をひいてしまいました。
でも正直、春らんまんの明るい日の光がちょっと居心地が悪くて、凍えてしまうような寒い冬が実は好きだったりします。

さて、久しぶりの音楽放談、今回のテーマは “ ロック ” です。
いわし亭部長と話をしていると、いつも “ 芸術に対する魂の有り様 ” というところに話が行きます。

いわし亭部長いわく “ 人が音楽に求めるものには、二つあるのではないか? 
一つ目は “ 連帯 ・ 癒し 
そうして、もう一つは “ 人が自己の中に持っている < 違和感 > とか < 分かり合えない感 > の客体化 ” 

私は決して音楽に詳しいほうではないんですが、これはすごくよく共感します。
どちらかと言えば、私が求めるのは後者であって、自分の疎外感とか反撥というようなものを、音楽とともに、何かにぶつけているような気がします。

ロックに関わる人は、“ 楽しいから音楽をしている ” のではなく “ しないと、死ぬから音楽をする ” そういう感じがします。そして聞いている方も、何か生命の根底からくる叫びみたいなものを共有している感じがします。

そんな私たちが、また様々なパンチのあるエピソードを語り、それらをもたらすものは一体、何か? と言った会話の果てに “ ロック ” という言葉が出てきました。

とても範囲の広い話題なので、今回はあくまで “ いわし亭の 『 私的ロック概論 』 ” です。





“ 演奏しないこと ” “ 歌わないこと ” それすら音楽として認めるのは、極論、ロックと現代音楽くらいではないだろうか? そんな禁じ手すらも一つの表現として機能する、それもまたロックの世界。これはもう一つの ’70年代伝説のお話。


“ 演奏しないことも音楽のうち ” を最初に実践したのは、現代音楽のジョン・ケージであろう。ケージは 1952 年に 「 4 分 33 秒 」 ( よんぷんさんじゅうさんびょう ) という曲 ( ? ) を発表したが、全 3 楽章からなるこの作品の楽譜はすべて “ 休み ” と記譜されている。無音も音楽である と認識することは、数学でいう 0 の発見にも匹敵するおそるべき発想の逆転だと感じるのは、いわし亭だけであろうか。
同年 8月に行われた米ニューヨーク州ウッド ストックでの初演では、第 1 楽章を 33 秒、第 2 楽章を 2 分 40 秒、第 3 楽章を 1 分 20 秒とし、その合計時間 4 分 33 秒がこの曲の通称となった。4 分 33 秒 = 273 秒と関係づけ、“ 絶対零度 ( -273 ℃ ) = 無 ” という解釈もあるが、これはケージ自身の言葉ではない。
いわし亭は、音楽は空気の振動によって伝播するものである以上、空気が存在すれば既に音楽なのだと考えている。完全な無音状態が自然界に存在しない以上、環境それ自体がすでに音楽なのだということである。

世界で一番大きな音を出すバンドとして正に喧伝されたグランド ファンク レイルロードは、日本のロック元年とも言うべき 1971 年夏に、史上初となる後楽園球場 ( 後の東京ドーム ) でライヴを行った。あのビートルズでさえ日本武道館だったのに、だ。
当時のチラシを見ると、雨天決行と勇ましい文字が躍るが、何と当日、本当に天候が最悪に荒れた。このグランド ファンク レイルロードのライヴは “ 嵐の後楽園 ” として日本ロック史の伝説として語り継がれている。悪天候と言う自然の演出と一時は中止になるのではないか という不安からくる暴動まがいの精神的高揚がもたらした効果は絶大だった。演奏時間は 1 時間少々と短いものだったが、居合わせた多くの聴衆は生まれて初めてロックの洗礼を受けたと感じたのか、誰一人、不満漏らす者はいなかったという。
ところが、この伝説には裏話がある。グランド ファンク レイルロード側が落雷による感電を恐れ、この演奏は全てテープだったというのだ。いわし亭は残念ながら、このライヴを生で体験することはできず、音楽誌で知っただけだったが、批判的な記事はついぞ見たことがない。あの興奮は本物だった という意見がほとんどで、演奏がテープであったという噂は、参加者にとってどうでもいいことだったのだ。

1973 - 4 年頃のキング クリムゾンは、いわし亭にとって最も重要なバンドだが、彼らはライヴ活動のかなりの部分をインプロヴィーゼーションに費やしていた。『 暗黒の世界 』 に収録されている 「 トリオ 」 は、そうしたいわゆる即興演奏なのだが、その名の通り本来カルテットであったキング クリムゾンがトリオで演奏している。演奏開始直後、最初の音を聞いたドラムのビル・ブルーフォードはすぐさまスティックを置き、沈黙を守ったのである。「 トリオ 」 は静謐の中に永遠の安寧が表現されており、ブルーフォードのこの判断についてクレジットには “ Admirable Restraint ( 賞賛に値する抑制 ) ” とある。

2014 年の 2 月にセックス ピストルズのオリジナル メンバーであるグレン・マトロックが神戸にやって来た。彼のプレイしたロックはレジェンドに相応しい豊饒で潤沢なものだった。グレンがピストルズの代表曲である 「 アナーキー イン ザ U.K.」 「 ゴッド セイヴ ザ クイーン 」 「 プリティ ヴェイカント 」 を作詞・作曲したことは、バンドというよりもロック史そのものに貢献した ( これらの楽曲が収められたデビュー アルバム 『 勝手にしやがれ!! 』 は、『 ローリング ストーン 』 誌が選んだ 「 オールタイム ベスト アルバム 500 」 において 41 位。 「 オールタイム ベスト デビュー アルバム 100 」 において 7 位 ) と言っていいほどの大偉業なのだが、しかしそれでもピストルズというと、誰もが “ 腐れジョニー ” と “ 極悪人シド ” を想起する。
バンド マネージャー マルコム・マクラーレンは、“ バンドとしては、演奏ができるよりは出来ない方がよいのだ ” という訳の分からない確信の元、唯一演奏の出来たマトロックをクビにして、演奏能力ゼロの “ 極悪人シド ” を加入させた。
ロックは地味な才能よりも、派手なオーラを優先して出来上がっている。このロック史上最大の功労者の一人が、客寄せパンダでしかなかったチンピラに取って代わられたわけで、歴史とは必然ではなく結局、偶然の連続なのだ と痛感させられる。


楽器を演奏しない という一方で、口パクの問題もある。 perfume の様に、口パクをリップ シンクと呼び、新しいパフォーマンス スタイルとして確立したアーティストもいる。では、口パクとは、そもそも何のため なのだろうか?

口パクは洋楽の世界では、当然のこととして認識されている。海外では、アーティストの生演奏は特別なものとして尊重されており、それは実際にコンサートやライヴに行って有償で聴くべきである という観点から、テレビなどでの口パクはミュージシャン側の権利として認められているのだ。
ところが、T.Rex のように、レコード音源を使うのではなく、テレビ用に前もって別テイクを録音してまで、口パクを貫くケースもあり、ファンにとってはテレビ音源が逆にレアで、要注意だったりもする。

perfume の素晴らしさについては、別稿を設けてお話したいくらいなので、ここでは軽く触れるにとどめるが、彼女たちのドーム ライヴは、一度は体験することをお勧めする。
ここで展開される音響・映像体験は、斯界の超一流アーティストのプライドの激突と言ってもよく、perfume もまたそうしたアーティストの一人なのだ。CG の完成度、映像をリアルタイムで連続再生するテクノロジー、エレベータやクレーンまで持ち込んだ大掛かりなセット、凄まじい低音の破壊力 ( この低音は、いわし亭がかつてライヴで体験したどの低音よりもモノ凄かった と断言できる ) 、perfume の素晴らしいダンスと歌唱 ( 当然ながら、歌うこともある ) 。これらが混然一体となって、目くるめく現代の桃源郷が現出するのである。

ジャニーズの各チームやソロ、AKB 48 グループ、モーニング娘。をはじめとするハロー!プロジェクト、少女時代や KARA といった K-POP 勢も含め、激しいダンスが売り物のパフォーマンス グループに “ 完全な生歌 ” を期待するのは現実的には難しい。
一方で、ももいろクローバーZ のように激しいダンスをベースにしながら、同時に歌うことにこだわるグループもいる。同時に成立しないほどの激しいパフォーマンスと歌や演奏は、逆にそれはそれで大変に価値のあることではないか とも考えられる。


ここまで “ 演奏しない ” “ 歌わない ” という禁じ手の数々を紹介してきたが、この禁じ手すらも表現の一つとして立派に機能する ~ それがロックの世界であるが、とすると perfume やきゃりーぱみゅぱみゅ、ジャニーズや AKB 48、モーニング娘。もロックなのだろうか? 

ここで “ ロック ” というジャンルについて、述べたい。

最後に紹介した perfume やきゃりーぱみゅぱみゅ、ジャニーズや AKB 48、モーニング娘。は、もちろんロックではない。そもそも、歌わないことは彼らにとって、決してマイナス ポイントではない。表現というわけではなく、激しいダンス パフォーマンスと引き換えに、ヴォーカルがおろそかになるのは、やむを得ない事情である。

では、何をもってロックとするか。
キング クリムゾンのリーダーであったロバート・フィリップは、おそらく現存するギタリストの中で最もギターを扱うことに長けた演奏者 ( 残念ながら 2011 年に引退宣言 ) の一人である。フィリップほどのテクニシャンでも、ライヴでは集中するため椅子に腰かけて演奏している。そうした知的で繊細で慎重な演奏者であるフィリップが、ジャズやクラシックの世界に活躍の場を求めず、一見知性とは真逆のイメージがあるロックにあえて留まる理由は何なのだろうか? フィリップ自身は “ ロックとは最も鍛えるに足るフォームである ” と説明している。

つまり、ロックとはあらゆる方法論を許容する音楽表現なのだ。従って、ロックにおいては表面的な音楽スタイルは何でも良い。あのセックス ピストルズがそうであったように、演奏のレベルも大した問題ではない。
答えは、アーティストの、リスナーの、ロックに対するスタンスにある。唯一必要なことは、ロックと関わっていくことで生ずる全ての問題を引き受けるだけの “ 覚悟 ” や “ 精神性の高さ ” だ。
ロックは、人とは異なる自分自身の中の違和感を対象化していくことで、その音楽性を育んで来た。’60 - ’70 年代はロックに限らず、音楽を演奏することは多くの場合、違和感の表明だった。だからこそ、嗅覚の鋭い人間にとって、音楽とドロップ アウトは一対に論じられたのだ。
ところが、’70 - ’80 年代と時間が進むにつれ、人間は均質であること、中庸であることを求められるようになり、社会は人間を歯車化すべく無個性な人間の大量生産を目指した。ロック的なものがどんどん薄まり、あるいは面倒くさがられ、排除されていく過程には、こうした世の中の動きが密接に関わっている。だからこそ、ロックなる精神が溢れていた ’70 年代までの音楽は、そのジャンルが何であれ、ロック的な香りを確実に放っている。

敢えて言えば、デビュー当時から情念を感じさせるヴォーカルでロック ファンからも人気の高かった中森明菜や違和感を対象化して毎回、奇跡的なステージを見せる大森靖子、精神の荒れ地に凛と立ち続ける黒木渚 ( 2014年からはソロとして活動を再開した彼女への期待は大きい )、この人こそ真の意味での天才だといわし亭が確信する後藤まりこ。
彼女たちのいる場所はもしかしたら、一般的な認識で言うロックではないのかもしれない。中森明菜など、スタートは 1982 年にデビューしたたくさんのアイドルの中の一人に過ぎなかったのだから… しかし、いわし亭はもがき苦しみながらも紡がれる彼女たちの音楽の中にロックを見てしまう。

そして、いわし亭が全肯定する美輪明宏。反体制と弱者への愛、高い覚悟のもとに発せられる名言の数々、その特異なポジショニングも含めて美輪明宏ほど、ロックを体現しているアーティストは他にいない。



セックス ピストルズ 『 勝手にしやがれ!! 』


1. さらばベルリンの陽
2. ボディーズ
3. 分かってたまるか
4. ライアー
5. ゴッド セイヴ ザ クイーン
6. 怒りの日
7. セブンティーン
8. アナーキー イン ザ U.K.
9. サブミッション
10. プリティ ヴェイカント
11. ニューヨーク
12. 拝啓EMI殿












起業当初のヴァージン レコードは、あのオカルト映画の金字塔 『 エクソシスト 』( ’73 ) に使用されたマイク・オールドフィールドの『チューブラー ベルズ』、イギリスのカンタベリー系を代表するジャズ ロックグループ ヘンリー・カウなど実験的でアート指向の強い作品を量産していた。当然のことながら ( 笑 ) ヴァージン レコードは経営難で、この会社がヴァージン アトランティック航空まで擁する多国籍企業へとのし上がったのは、一にも二にも、セックス ピストルズの大ヒットのおかげである。

ここではいわし亭が所有している、記念すべき日本デビュー アナログ盤の写真を掲載したい。日本で最初にセックス ピストルズのアルバムをリリースしたのは、なんと美空ひばりのカタログを独占する日本コロムビア。演歌のイメージが濃厚な同社は純国産のメーカーで、外資系ではなかったため、洋楽を扱おうとすると新興のヴァージン レコードあたりと契約するしかなかった という事情がある。日本コロムビアは、’70年代にファウスト、タンジェリン ドリームのようなプログレッシヴ ロックのアルバムを次々とリリースしており、そのムチャ振り具合は今日的に見ても十分驚嘆に値する。
それはさておき、セックス ピストルズのリリースに関われたというのは、会社にとっても関係者にとっても、思わぬ拾い物であったろう。

注目すべきはレコードの帯を飾る惹句である。この稀代のパンク バンドをまるでエイリアンか何かの様に勘違いしていて、書体なども含め、演歌メインの会社の洋楽部の戸惑いが伺える。ロックがまだ原初的な暴力衝動などを色濃く残していて、それを大人たちがどう扱っていいものか苦悩していた古き良き(?)時代の葛藤がここに再現されている。
まだ、パンクという言葉もなく、ロックと分類されている ( 帯の左下 ) ところも、時代を感じさせて興味深い。









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