2014年5月2日金曜日

音楽の大いなる意思に祝福されたミュージシャン GOMA & The Jungle Rhythm Section


久しぶりの感覚だ。音楽に祝福された空間に身を置くのは。25年前、バリ島に音楽探訪の旅に行き、プリアタン村で見た祝祭以来のような気さえする。あれからも確かに神憑った瞬間には何度も立ち会ったようにも思うが、ここまで全身の毛穴が開く感じと言うのはなかった。

2014.4.18 GOMA & The Jungle Rhythm Section  @ 梅田AKASO


GOMA はディジュリドゥを台座に固定して演奏するので、両手が空いているのだが、この手が何とも表情豊かに動くのだ。鳥が羽ばたいているように、魚が泳いでいるように、パントマイムで何かを伝えようとするかのように… まるでその動きは自然と交信し、その意思が乗り移っているように見える。その交信の結果、サウンドが流れ出してくる感じなのだ。
そして、ディジュリドゥの音が途切れずに鳴り続けている という事実に気づいた時、恐るべきことに思い当たった。で、帰宅してからネットで検索してみるとやはり

循環呼吸 ( サーキュラー ブリージング ) : 鼻から息を吸う時にも常に口から息を出すことにより、音を途切らせずに続ける奏法 

説明することは簡単だが、こんなことが実際問題、可能なのだろうか…

このディジュリドゥの通奏低音は、ロック トリオでいうところのベースの役割を果たしながら、同時にメロディ ラインを刻むリード楽器としても確実に機能している。先ほどのサイトによると “ ディジュリドゥは息を吹き込む楽器ではなく、唇を振動させる楽器です ”  とのことで、確かに吹いている感じではなく、何か話している感じがする。つまり、メロディは基本的には、話すこと・歌うことで作られているみたいだ。この GOMA のディジュリドゥがドラマー 椎野恭一と二人のパーカッショニスト ( 田鹿健太 : ラテン パーカッション 辻コースケ : コンガ × ボンゴ ) が叩き出すリズムの洪水の上に豊かな表情を加味していく。言葉のない音楽にも関わらず、その饒舌さは唯一無比だ。

この3人の The Jungle Rhythm Section ~ その名の通り、これは本当に日本人が演奏しているのか と思わざるを得ない律動感 躍動感 でリズムを間欠泉のように吹き出し続け、フロアを大ダンス大会へと誘う。このニュアンスの豊かさ、強弱の付け方、そして何より演奏している時の楽しそうな風情、自信たっぷりのアクションなど、見ていて惚れ惚れする。この空間が音楽に祝福された祭りであることをまざまざと見せつけられた感じがした。

GOMA は ’98年、アボリジニの聖地アーネムランドで開催された “ バルンガ ディジュリドゥ コンペティション ” でノンアボリジニ プレイヤーとして初の準優勝という快挙を成し遂げている。国内にとどまらず、世界的なレベルでも見てもディジュリドゥ奏者の第一人者であった。
ところが ’09 年11 月、GOMA は首都高速道路で追突事故にあう。脳に障害が残り、記憶が断片的になった結果、自分がディジュリドゥ奏者であることはもちろん、どこの誰なのかも分からなくなってしまったのだ。
その GOMA が自らの努力で、音楽の現場に復帰するまでを描いた映画 『 フラッシュバックメモリーズ』 は 3D で制作され、各方面で大変な話題と反響を巻き起こした。
いわし亭も、地元の映画館で上映されているのを知っていながら、結局、見に行けず痛恨の思いだっただけに、今回、この作品を 3D で上映しながら、実際のサウンドは生音で、スクリーンを背にして GOMA & The Jungle Rhythm Section がシンクロ演奏してみせる~名付けて 4D として披露しようという物凄い企画を知ったのは、このライヴのわずか数日前だった。大慌てで、チケットを購入してみたところ、意外に整理番号が伸びていないのが気になったが、実際にフタを開けてみると大変な盛況で、本当に自分のことのように嬉しかった。

恐るべきはその演奏力であり、実際に映像と全く同じ演奏を再現し、音を当てていくのだ。そのシンクロ率の高さは驚異的で、本当にこれは目の前で起こっていることなのか と不思議な感覚にとらわれた。
映画は非常にドラマティックに出来ていて、タイトルバックとエンドロールで文字が乗っかってきた瞬間の表現しがたい高揚感は正に鳥肌モノだった。音楽を聴いて、純粋に涙が出そうになったのは、本当に久しぶりである。また今回、映画館では自粛される 3D 効果をリミットなしで解放したとのことで、道理で信じられないくらいの奥行きの表現力、飛び出し方のリアル感は映像体験としても稀有のものだった。

しかし外傷性脳損傷という状況で、実際、記憶が定かでない人物がはたして演奏などできるのだろうか? 演奏なんて正に記憶あっての行為ではないかと思うし、実際、映画の中でも GOMA 自身  “ 人は記憶に乗っかって会話しているもんじゃないですか ” と語っている。ところが、何度もリハーサルを繰り返す中で、脳ではなく肉体が覚えている という不思議な感覚が立ち上がり、演奏が可能になったのだと言う。先述したとおり、ディジュリドゥは独特の演奏法を要する楽器であり、何も知らない人が初めて吹いて簡単に音が出せる代物ではないのだ。
これはまるで、夢野久作の 『 ドグラマグラ 』 ではないか。“ 脳が痛いのではないですよ~ 怪我したところが痛いんですよ~ ” というあれだ。


このミュージシャンをこのまま不遇のうちに埋もれさせてしまうのは、音楽を推し進めていく上で大変な損失である ~ そうした天の配剤と GOMA の音楽に対する確固たる信念がシンクロした時、必然として奇蹟は導き出されたのだ。そう思うと GOMA の演奏に立ち会うこと自体、そもそも事件の様に思えてくる。

何がどうであれベストを尽くすこと。結果は後からついてくる。GOMA を見ていると、本当にそう思う。 GOMA は語る。 “ 無くなってしまった記憶、取り戻せない過去を嘆くより、今から新しく作っていこうとする意思、作っていく事実、作っていく記憶こそが重要なのだ。昔の自分を追い掛けるのではなく、今の自分で生み出せる新しい世界に自信を持って突入できる気分になってきた ” と。
そしてこのことは、障害の有無にかかわらず、実は多くの人々にとっても当てはまるのではないかと思う。



『I Believed the Future.』



1.ONE GROOVE 2011
2.OMOTINO 2011 (Live @静岡「頂」)
3.EUCALIPTUS 2011
4.CACTUS 2011
5.AFRO BILLY 2011
6.RIODIDGENEIRO 2011 (Live @静岡「頂」)
7.FLOW

GOMAが事故から復帰し、ついにレコーディングにこぎつけた記念すべき音源が、スタジオとシークレット ライヴの二本立てで収められている。
収録されているのはバンドの代表曲ばかりだが、実はそれは外傷性脳損傷から肉体の記憶で取り戻した作品であり、単なるリテイクとは全く異なる。その意味をじっくり考えてみて欲しい。この事実が同じ境遇にある人々にどれほどの勇気と希望を与えることか。

待ちに待ったGOMAの復活を祝福して、リズムの洪水で空間を埋め尽くす The Jungle Rhythm Section の演奏をバックに、GOMAの喜びに満ち溢れたディジュリドゥが鳴り響く。これほどにヴァイタルな演奏が記録として残されたことに素直に感謝したい。










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