2013年2月8日金曜日

今、なぜ 1960-1970年代なのか? その2 ジム・モリソン


ロックをラヴ・セックス・デスというキャッチ フレーズで語った詩人 ジム・モリソンが、パリに消えて早、四半世紀。
我々が想像するスキャンダラスなロック スターそのものであったジムも、生きていれば、還暦をはるかに越えた年齢になる…

ジムは、ロックの持ち得た遺産の一つであり、音楽、ことにロックと関わることが常に死と隣り合わせの危険な闘いであることを体現した象徴的なミュージシャンだ。そして、音楽が単なる娯楽の対象ではなく、芸術や文化あるいは生き方までもリードしうる可能性を、世界中のロック ファンに気づかせたアーティストでもあった。
ジムのいたドアーズが英国公演を行った際、イギリスの音楽ジャーナリズムは、ドアーズとビートルズを同格に評し、最大級の敬意を払ったのである。 

’69年7月3日、ローリング ストーンズの最初のリーダーであったブライアン・ジョーンズが、オーヴァー ドーズ(薬物過料摂取)によって自宅のプールで沈んでいた。ハイドパークで行われた彼の追悼フリー コンサート(かのオリジナル キング クリムゾンが驚異のデビューを飾った件のコンサートだ)で、葬送の詩を朗読したジムもまた、2年後の同じ日、かの地へ旅立ったのだった。 

20歳で詩作を終え、アフリカに渡って奴隷商人をしていたと噂される天才ランボーをこよなく愛したジムもまた、無名であることを楽しむようにパリの市井で過ごし、そして唐突に人々の前から姿を消したのだ。その死体を確認した妻 パメラもまた後を追うように亡くなったため、熱烈なファンはジムがまだ生きていると、かたくなに信じている。
我々、ロック ファンはその前年’70年9月にジミ・ヘンドリックス、10月にジャニス・ジョプリンという天賦の才能を失っていた。

ジムの死はまさに地獄の季節であった’60年代ロックの終焉を告げる出来事だったのだ。




 


『ハートに火をつけて』



 1 ブレーク オン スルー
 2 ソウル キッチン 
 3 水晶の舟 
 4 20世紀の狐 
 5 アラバマ ソング 
 6 ハートに火をつけて 
 7 バック ドア マン 
 8 君を見つめて 
 9 夜の終わりに
10 チャンスはつかめ 
11 ジ エンド 








  • 作家の最高傑作は処女作であるという使い古された言辞を今更ながらに再確認することになるドアーズのデビュー アルバムである
  • 発表は ’67年 1 月 4 日。第 2 弾シングル「 ハートに火をつけて 」が、ビルボード誌 7 月 29 日号で週間ランキング第 1 位を獲得し、以降 8 月12 日まで 3 週連続で第 1 位をキープ。’67年の年間ランキングでも第 2 位に輝く
  • ジェファーソン エアプレーンの「あなただけを」(『 シュール リアリスティック ピロー 』 収録 )が全米第 5 位の大ヒット、ビートルズの『 Sgt.ペッパーズ ロンリーハーツ クラブ バンド  』 が 6 月 1 日にリリースと、ポップスの豊作に恵まれたこのシーズン、ジムの死の半年後 (  ’72 年 1 月 ) に発表された追悼盤『 Weird Scenes Inside the Gold Mine 』( 邦題 ジム・モリソンの遺産 ) のブルース・ハリス ( BRUCE HARRIS ) によるライナーには “ マジック サマー ” と記されている
  • ファンのイメージとは関係なく、ドアーズがグループとしてのピークを迎えたのはこのアルバムのレコーディング時期であり、その後、ドアーズはなだらかに退潮して行く
  • 後々までそのイメージがジムを苦しめることになる代表曲 「ハートに火をつけて」、レコーディング出来たこと自体が事件と言える 「ジ エンド」、ジムの投げかける真摯なメッセージが時代の空気を醸し出す 「ブレイク オン スルー」、静謐なたたずまいが美しい 「夜の終りに」、さらにベルトルト・ブレヒト&クルト・ワイルの戯曲 「アラバマ ソング」 をカヴァーするセンスの良さも見せつけて、高度なバランス感覚のもとに制作されたアルバム

  • ’60年代とは、いったい何だったのか? その全ての答がここにある


パリに消えたMR.MOJORISIN’


念願のパリ、ペールラシェーズ墓地にジムのお墓参りに行ったのは、'92年1月のことだった。ペールラシェーズ墓地はパリ市内北東にあり地下鉄で行ける。

冬のパリは寒い。
空気中の水分が針のように凍ってそれがイチイチ、突き刺さってくる感じなのだ。その寒さは明らかに攻撃的で、異邦人である筆者を拒否しているようにさえ思えた。寒さに極端に弱い筆者は、すっかり無口になってしまった。

墓地の手前の花屋で供花を買う。

入り口にある事務所で、おおまかな場所の確認はしたのだが、村松雄策氏の本なんかで読んだ通り、JIM” という落書きがレンガの壁からゴミ箱から果ては他人の墓石にまで、やたらあって、ほとんど迷う事もなく、たどりつけた。
近くまで来ると、ある一角だけに墓地に似つかわしくない妙なにぎわいがあり、数人の参拝者の姿が見えたのでなおさら簡単だった。

残念な事に、有名な鼻の欠けたジムの胸像 (梅毒病みのジム・モリソンという強烈な落書きがあった) も分厚い石板で出来た墓石もすでになく、味も素っ気もないソリッドな墓石に変わっていた。
オリバー・ストーン監督の 『ザ ドアーズ』 はまさにこの場所で終わるのだが、そのシーンが (やたら画面が暗く、手ブレがひどいことからも、おそらく) 素人のプライヴェート フィルムだったのは撮影当時、すでに胸像も石板も盗まれていたからだろう。

その代わりと言っては何だが、ジムの墓石にもまわりの墓石にも、とにかく落書きがメチャクチャ凄い。ジムのお墓は比較的低く、むしろ地味なくらいなのだが、看板のように立派な墓石が、ジムのお墓を守るようにその回りを取り囲んでいて、これ幸いと格好の落書きの餌食にされているのだ。実際、これを見るだけでもかなり楽しめた。
しかし、他人の墓石に落書きしまくるというのは、日本人には理解し難い発想だな。ちなみに現在はこの落書きもキレイに消されているらしいが…

お墓の前には、ネイティヴアメリカンのようにカラフルな布地でハチ巻をした年齢不詳の男がいて、墓守のように居座っていた。傍らのラジカセからはもちろんドアーズの曲が流れている。
“どこからきたんだい?” “日本です” 片言の英語で会話する。にっこり微笑む彼。彼から握手を求められ、筆者もしっかり握り返した。ドアーズのファンというだけのつながりでしかないが、音楽で国境を越えられるというのは本当だ。
ジムの墓石の横で3~4枚、記念撮影した。パティ・スミスが撮ったようなしょぼくれたものではなく、何故か妙にニヤけたものになった (苦笑)

毎年、ジムの命日 (なんとブライアン・ジョーンズの命日でもある7月3日) や誕生日 (なんとジョン・レノンの命日でもある12月8日) には、ここに世界中のファンが集まって夜通しとんでもない騒ぎになるそうだ。それは治安の問題もあって、地元ではあまり歓迎されてはいないようだが…
ここはもはやパリでも有数の観光スポットになっていて、年間150万人のファンが訪れるという。死してなお、ジムに平穏な日々は訪れないようだ。



これ、ジムの墓の隣の全く他人の
の裏側です
これ、ジムの墓と背中合わせの全く他人の墓石の裏側です






これ、ジムの墓と全く関係のない
場所にある、他人の墓石です














かつて存在した有名な鼻の欠けたジムの胸像(梅毒病みのジム・モリソン
という強烈な落書きがあった)と分厚い石板で出来た墓石
             














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