2015年9月4日金曜日

ハートが大好きだったシーナは、ヴァレンタインに旅立った ~ 追悼 シーナ

2015 年 2 月 14 日
1978 年の結成当初より中断や解散状態に一度も陥らず、35 年間走り続けたシーナ&ロケッツで、日本の女性ロック ヴォーカリストのスタイルを確立したシーナ ( 本名 鮎川悦子 ) が、子宮頸がんのため、入院先の都内の病院で亡くなった。享年 61 歳。

“ 35 年一緒に ( シナロケを ) やれて、幸せでした。ファンの方にも幸せでした、と伝えてください ”
“ 歌うことが好きで、病気治ったら何したい? って聞かれたら < 歌いたい > って。( 最後にそれが ) かなわんかったから、歌聞きながら…。素晴らしい歌手でした。一緒に 35 年過ごせて、幸せでした。ファンの皆さんから愛されて、とても幸せやったと思います。ハートが大好きだったから、バレンタインが命日に なって… ”

夫、ギタリストの鮎川誠 談 デイリースポーツ 2015年2月14日


めんたいロック ( 実際には、福岡にとどまらず日本 ) を代表するロック黎明期の名バンドであったサンハウス~ ミシシッピー デルタ ブルーズの大御所の名を冠したその命名自体、名は体を表すを地で行くものだ。ヴォーカルの柴山俊之はそのスタイルと作詞能力で抜きん出た存在感を発揮している ~ でシャープで切れのいいギターを聞かせていた鮎川誠は、1971年、高校3年生の夏休みに恒例の家出を終えて京都から帰ってきたシーナと博多のダンスホール “ ヤング・キラー ” で運命の出会いをする。二人は生き方や音楽の好みなど多くの点でヴァイヴス ( ! ) を共有し、すぐさま同棲、事実婚の状態になった。
シーナ & ロケッツがユニークだったのは、ミュージシャン同士が結婚したのではなく、もともとの夫婦がバンドを結成したという点だ。実は、それまでシーナはヴォーカルを担当したことがなく、バンド結成時は完全な素人だった。そもそも、1978年当時、ヴォーカリストとして指標になる女性ロッカーは、すでにパンクの洗礼を浴びた海外 ( 例えば、ブロンディのデボラ・ハリーやパティ・スミス、スージー・スー、ニナ・ハーゲン、スリッツのアリ・アップ、レインコーツのアナ・ダ・シルヴァとジナ・ バーチ、X-レイ スペックスのポリー・スタイリン といったところか ) でならともかく、日本では OZ を率いていた女帝カルメン・マキくらいしかいなかった。女性ヴォーカルという大きなカテゴリーから俯瞰すると、かろうじてジャズ ヴォーカリストとして独自の美学を貫いていた浅川マキ、ロックやパンクに通底する特異な世界観を持っていたシンガーソングライター達~森田童子、山崎ハコ、中山ラビ、佐井好子、スタンス自体がアウトサイダーそのものであった美輪明宏といった名前が挙げられるだろうか…

ヒット曲ランキングから見てみると、ピンクレディーが 「 UFO 」 の1位を筆頭に実に 4 曲をトップテンに送り込んでおり、以下、堀内孝雄 「 君のひとみは 10000 ボルト 」 キャンディーズ 「 微笑がえし 」 平尾昌晃・畑中葉子 「 カナダからの手紙 」 サーカス 「 Mr. サマータイム 」 矢沢永吉 「 時間よ止まれ 」 中島みゆき 「 わかれうた 」 が続く。さらに印象的なところを挙げると世良公則&ツイスト 「 銃爪 」 山口百恵 「 プレイバック Part 2 」 アリス 「 冬の稲妻 」 沢田研二 「 サムライ 」 等々がチャートに並ぶ。
一方、海外では、かのセックス ピストルズが1月に空中分解、すでにパンク ムーヴメントはその役割を終え、ニュー ウェーヴ・オルタナティヴやレゲエへとバトンを渡しつつあった時期である。

◎ SHEENA & THE ROKKETS
   鮎川誠 & シーナ ロケット→シーナ & ザ ロケッツ→シーナ & ロケッツ

1978 年:鮎川誠 & シーナ ロケットの名義でシングル 「 涙のハイウェイ 」 をリリース、デビューを飾る翌1979年、アルバム 『 真空パック 』 を発表。シングル 「 ユー メイ ドリーム 」 ( 作詞 : 柴山俊之 作曲 : 鮎川誠、細野晴臣 ) が JAL の “ マイ ハート キャンペーン ” の CFに起用され、一躍、脚光を浴びる。国内外を含めて、これまでに通算 35 枚のアルバム 16枚のシングルを発表

1988 年:ニューヨークの CBGB でライヴ デビュー。ジョン・レノン&オノ ヨーコの専属写真家 BOB GRUEN の写真集で “ 日本の最高峰 パンクバンド ” として紹介される。国内・海外の様々なアーティスト 特にウィルコ・ジョンソンとの交流が深い。

代表曲:「 レモンティー 」 「 ユー メイ ドリーム 」 「 ピンナップ ベイビー ブルース 」 「 ハッピーハウス 」 「 レイジー クレイジー ブルース 」 「 ロックの好きなベイビー抱いて 」 「 ビールスカプセル 」 「 I’M FLASH ( ほら吹きイナズマ ) 」 

バンド名:“ シーナ ” という名は、鮎川誠の祖母の名前 “ 鮎川シナ ”、2人が好きなバンド ラモーンズの 「 シーナはパンクロッカー 」 という曲のタイトルに由来する。シーナの本名 “ 悦子 ” から “ ロック + エツコ = ロケッツ ” となり、さらにロケッツだけでは軽いということと、昔風に “ ●● & ロケッツ ” にしたい という鮎川のアイディアによる。綴りを “ ROCKETS ” ではなく “ ROKKETS ” とするのも鮎川流のセンスとのこと。


不明なことに、鮎川誠のライヴはサンハウスの再結成などで、何度か見ていたのだが、いわし亭は肝心のシーナ & ロケッツを見たことがなかった。
今回、シーナの訃報を受けて、東京と福岡で追悼ライヴが開催されたが、2015 年 6 月 9 日 正にロックの日! に名古屋 CLUB ZION でヘイトフル エアヘッド クロージング発足記念 ライヴ ショウと銘打ち、関西圏で、シーナの急逝以降初のライヴが企画された。前座は何とこのブログでもおなじみのキノコホテル当日は入場者全員に主宰者 HATEFULL 謹製 シーナ追悼メモリアル T シャツがプレゼントされた。

16:30

会社を 4 時半に出て、新幹線に乗ると最短で 6 時 41 分に地下鉄 上前津駅に到着する。そのまま 4 番出口を上がると地下に CLUB ZION ( クラブ ザイオン ) のある GION ビルのちょうど前に出る。
CLUB ZION は 150 人も入ればいっぱいになってしまうそれほど大きなライヴハウスではないのだが、GION ビル自体にレコードショップ、アパレルショップ、タトゥースタジオ、カフェ、ミュージックバー、サウンドプロデュース、等が入っていていて、ビル全体でアーティスト サポートを行っているユニークな場所である。

19:00

CLUB ZION に入るとすぐ左手にバーカウンターがあり、そこから続く壁にシーナの写真 ( 右→ ) を引き伸ばした大きなタペストリー ( ? ) がつるされていて、まるで彼女がステージを見守っているかのような風情が醸し出されている。
この日は特別 DJ も待機していて、面白い曲をセレクトするので、“ 次は何がかかるんだろう? ” と待ち時間も苦にならずに過ごせた。もちろん、
ラモーンズの 「 シーナはパンクロッカー 」 も流れていた。

19:30
キノコホテルの面々はいつも通り、ケメ ファービー JKと登場し、インストゥルメンタルの演奏でマリアンヌ支配人の登場を待つ。ステージが狭い分、メンバー全員を一目で視野におさめることが出来るというのは、それはそれでとても効率が良くて助かる。キーボードのある分、キノコホテルのステージ上は煩雑で混乱しており、ステージの狭さも手伝って足の踏み場もない感じだが、支配人はひらりひらりと軽やかに舞い、小道具の鞭を振り回して歌い、時には大股びらきでエレキ ギターをバリバリ弾いて、ノイズを出す。いつも通り、キーボードの上にも乗っかってシナを作る。
今回は OA ( オープニングアクト ) なので、小一時間程度の内容。イギリス公演から帰国して 2 週間くらいだが、最近の実演会をコンパクトにまとめたものになっている。ただ、短時間でもキノコホテルとしてのプロモーションは必要で、メンバー紹介を兼ねた終盤恒例の楽曲も当然、演奏される。
本来、シーナ & ロケッツとキノコホテルでは客層が相容れないことはなはだしいが、
支配人ケメのレジェンドに対するリスペクトはかなりなもので、今回は OA のためだけに名古屋まで来たのではないか。というのも、日程的にこの近辺での実演会が確認できないのだ。特にケメはかなりこの OA を楽しみにしていたことが伺われる。翌日 “ 愛用Tシャツにサインいただきました ” ツイートしている。 

keme @reverbfuzz  610
愛用Tシャツにサインいただきました。
シナロケ最高!涙でました
いつもよりステージに近い関係で、ケメが前に出てギターを弾いてくれると本当に近い。それはそれでかなり嬉しい。いつもステージ最後方にいるファービーも近い。彼女のドラムも恐ろしく上達したと思う。バックコーラスに加えて、最近は曲を間断なく演奏する関係で、司令塔としてのリズムセクションは、ことのほか重要になって来ているのだが、その意味でも、ファービーと JK の連携は素晴らしい。ファービーの場合、キノコホテル自体が歌謡曲ベースでストレートなドラムに徹している分、変拍子などはそもそも必要ないが、JKとリズム セクションを構成している関係上、スピードやテンポ、手数などで、実はかなりなものを要求されている。

何にしても、近いというのはライヴハウスの醍醐味でもあり、その意味では、音や演奏や表情などもダイレクトに伝わる感じが良い。特にケメ ファンのいわし亭は、ステージに対して右側に立つことが多く、いつもほとんど視界に入ってこない JK をしっかり見れたのが良かった。JK の笑顔はまさに天然の笑顔で、演奏が楽しくて仕方がない感じがまるで童女のようである。しかし、音はガリガリと物凄く、それほど激しく演奏している風には見えないのだが、音数が半端なくて、その運指のスピードやいかに! と思われるのである。ギターの様にコードのない関係で、ケメがコードを引きながらリズムギターに徹してバッキングをしている時など、明らかにベースのメロディの方が立っている。

楽曲によって、両サイドの JK とケメがシンクロしながら、体を左右に振ったり、ぴょんと飛びながら体の向きを変える草創期から継承されてきたステージアクションが、今も割愛されることなく披露されているのも嬉しい。この動きとともにキノコホテルのライヴが終わっていく。このエンディングを見る度に、また次も見に来ようという気持ちが起こるのだ。

支配人自身、“ 何のことやらワケが分からんと思われている方もたくさんいらっしゃることでしょう ” と MC で話していた通り、キノコホテル目当てで集まったリスナーは少なかったと思うが、それでも OA として十分に会場を温め、いい仕事をしたと思う。

21:00
キノコホテルが下がって約 20 分後、もう時間的には 21 時が近いが、ついについに
シーナ & ロケッツ登場。

もちろん、シーナが2月に亡くなっているので、ドラム ベース ギターのトリオ編成である。あえて OA にキノコホテルを起用したのは、女性ヴォーカルとして支配人かケメを使う気なのか? とも思ったが、考えたらシーナの代わりは誰も出来ないのであって、そんなことをしたら逆にファンが怒るだろうし、キノコの彼女たちも畏れ多くて辞退するだろう。
“ シーナは三人のここにおる。でも見とるだけやから、みんな助けてな ” と自分の胸を指しながら朴訥に語る鮎川誠という人は、何て素晴らしい人なのだろうと思う。その感覚は正にファンと同じで、決してアーティストぶったり、上から目線でモノを言うことがない。
キノコホテルに引き続き、かなりの至近距離で鮎川誠、その名手のスケールワークをじっくり堪能できたのは、正に至福の時間
だった。この人、思っていたよりもかなり大きな人で、従って手のひらも凄く大きくて、これでガキッ と押さえられたコードはやっぱ説得力満点なのだ。日本人と外人のギタリストの最大の違いは手のひらの大きさだ と熱心に語ってくれた友人のギタリストがいたが、なるほどその通りで、鮎川誠の左手は安定感も群を抜いているのだ。

それにしてもここのところ、名手と呼ばれる人々の演奏を立て続けに目の当たりにしているが、きれいな状態のギターを見たことがない。どのギターも使い込まれてかなりくたびれており、何度も同じところをストロークされたであろうその場所は、塗装も完全に剥げて、ボディの素材そのものがむき出しになっている。角のところどころは欠けたり、剥げたり、埃がたまっていたりで、決して大事に扱われているとは思えない風情なのだが、そのくせ、セカンドギターは結局、トラブル対応用でしかなく、事実上、ほとんど利用されないもので、このくたびれたギターがやはりメインで弾き倒されるのである ( 笑 )  今、目の前での草臥れているけれども実に味のあるストラトキャスターを構える姿こそ鮎川誠その人である。オリジナルのヴィンテージ レスポールも一曲だけ登場させたが、やはり借りて来た感が否めなかった。名匠の作った風格を漂わせる実に美しいギターではあったが、正にワンポイント起用で実際、骨董品の様な扱いを受けている。やはり、メインはあのくたびれたギターなのだ(笑) 

堅実な演奏を聴かせるリズムセクションは見事なまでに黒子に徹していて、二人の名手は素晴らしい演奏を展開しているにもかかわらず、決して前に出ようとはしない。彼らが完全にバックに徹している関係で、かつてシーナが立っていた場所、鮎川誠とベースの奈良敏博の間、ドラムの川嶋一秀の前の大きく開いたスペースが存在感を発揮している。確かにここにシーナはいて、タンバリンを叩いたり、腰を大きく動かしたりして踊っている。
いうまでもなく、シーナ & ロケッツは、日本の紅一点バンドの草分け的存在なので 「 ユー メイ ドリーム 」 の様な代表曲は、鮎川誠が歌うにはキーが全然違うわけだが、フロアのファンが一緒に大合唱してそれを補うと、まるでそこでシーナが熱唱しているかのようにライヴは加速していく。
シーナが旅立ってまだ4カ月しか経っていない。だから、今年いっぱいくらいは、まだこんな手触りのライヴが続くのだろう と思うけれども、それに関してはファンも鮎川誠自身もあれこれ考えるより、その時々の自然な感情に任せて、楽しむのが一番なのではないか という気がする。

若い世代の大人の世の中に対する不平不満の表明として機能したロックにとって、ベテランやオールドネームとどのように折り合いをつけるのか という問題はなかなかに厄介だ。とはいえ、、本稿の鮎川誠をはじめ、ここのところ還暦を迎える~例えば PANTA、遠藤ミチロウ、遠藤賢司、友川カズキ、早川義夫、灰野敬二、JOJO広重、仲井戸麗市、泉谷しげるといったビッグネームがずらり並んだ感じはやはりモノ凄いし、ある種の感慨がある。だからこそ、女性ロッカーのシンボルとして、シーナには君臨し続けて欲しかった。

主催者からプレゼントされた記念Tシャツ
そして、実は還暦とはいえ、昨今、60 歳というのは、昔思っていたほど老人のイメージが付き纏わないものになっている。実は 60 歳とは、潤沢な経験値とまだまだ十分に残っている体力が絶妙のブレンドを施され、今迄、若いロッカーが勢いに任せた単なるエネルギーの無駄遣いで突貫工事のように演奏してきたロックを最小限の力と高いスキルによって再現する というマジックをたくさん見せてもらえるのではないか という淡い期待を抱かせる。実際、例えば、ジェフ・ベックなど、どう聴いても今の演奏の方がスピード アップしている観があるのだ。
あるいは年齢を重ねて、人間が熟成していくことで初めて味わい深い演奏にたどりつくブルースの様な音楽もある。日本のロックもやっとそうした老い ≒ 刹那 つまりはブルーズを体現するミュージシャンを擁するジャンルにたどり着いたのであり、これからの彼らの活躍が楽しみになる。

主宰者から配られたTシャツの出来もなかなかだったが、カラーが白でサイズも M しかなかったので、ライヴ中メンバーが着ていた黒ベースのシーナのTシャツも購入することにした。カウンターでビールを注文して、やっと汗だくの状況から解放されると、大急ぎでライヴハウスの外に出た。驚いたことに物販に鮎川誠その人がいる。思わず握手をしてもらい、最後のアルバムにサインをもらった。それにしても何とも気さくな人で、ファンと一緒にツーショットを撮っていたりもして、その場にいたファン全員が奇妙な興奮状態を共にしたのだった。


※ シーナ&ロケッツの公式サイトには、『 SHEENA FOREVER 』 のリンクがはられ、夫 鮎川誠の言葉はもちろん、葬儀の様子や悼辞などが掲載されている。




『 YOU MAY DREAM ユー メイ ドリーム ― ロックで輝きつづけるシーナの流儀』 
ミュージシャンの赤裸々な告白録としては、かなり興味深い。日本のロックの黎明期に運命的な出会いをした二人のドラマが、著者シーナだけでなく、鮎川誠のワンポイント コメントとしても綴られていて、その対比だけでも面白く読める。
当時、次々と侵攻して来た欧米のポピュラー ミュージックに対し、それを真正面から浴びたリスナーやミュージシャンがどのような態度をとったのか? 黎明期の日本のロックがどのように始まり、またどのように進化していったのか。
当事者だからこそ語れるレアな証言集としても非常に貴重な一冊である。






祝 35 周年! 6年 3 ヶ月ぶりとなる待望のオリジナルアルバム
『ROKKET RIDE 』 ( CD + DVD 限定版 )

 1. ROKKET RIDE
 2. Ride the Lightning
 3. 太陽のバカンス
 4. Baby Love
 5. ROCK FOX
 6. 電撃BOP
 7. Madness City
 8. I’m So Glad
 9. 夢にしか出てこない街
10. 素敵な仲間
11. 風を味方に
12. ロックンロールの夜




< おまけ 名古屋メシ!>

ライヴの後、22時過ぎ、いつもの元祖名古屋名物 台湾ラーメンの中国台湾料理店 “ 味仙 ” に台湾ラーメンを食べに行く。あまりの辛さにまさに口呼吸状態で、それでも一心不乱に食べている様子は、第三者から見れば正にバカ以外の何ものでもなく、とんでもない感じだろう。前回は、昼間の14時ごろに食べたのだが、その時と比べても辛さが増していて、味仙の台湾ラーメンは、深夜に向かう程、辛くなっていく様に感じた。







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