2014年5月23日金曜日

美輪明宏 畢生の舞台 ~ 「 愛の讃歌 」 は誰に捧げられたのか


1979年の初演以来、美輪明宏が大切に再演を繰り返している 『 愛の讃歌 ~ エディット・ピアフ物語 』 の舞台を見た。

エディット・ジョヴァンナ・ガションは 142cm の小柄な女性で、パリジャンの俗語で “ 小さな雀 ” を意味するピアフという芸名を授けられた。日本が誇る世界の歌姫 “ 美空ひばり ” もまた鳥の名を芸名に冠しており、この奇妙な偶然は興味深い。
多くの歌手がカヴァーし、もちろんピアフの代表曲でもある 「 愛の讃歌 」 が初演されたシチュエーションは、まるで初めからそのように定められていたかのように劇的である。どのような作劇の叡智も遙かに及ばないトラジディ。究極の愛の歌は、こうして遂げられることのなかった魂の鎮魂歌へと昇華する。しかし、この曲によって本当に讃えられたのは誰だったのか…


舞台 第一幕

日々の糧を得るために街頭で歌う無名のエディット・ジョヴァンナ・ガションは、ナイトクラブのオーナー ルイ・ルプレーによって見出され、スターの階段を上って行く。


舞台 第二幕

パリの酒場で歌っていたピアフは、ボクシング ウェルター、ミドル両階級の欧州王者であったマルセル・セルダンと出会う。
セルダンは “ どうして悲しい歌ばかり歌うの? ” と聞き
ピアフは “ どうして殴るの? ” と聞き返した。
このくだりはまるで、ジョンとヨーコの物語の序章を思わせる。二人は世紀の大恋愛に落ちた。がしかし、セルダンには妻子があり、これは同時に世紀の大不倫でもあった。

そして運命の 1949 年 10 月 28 日。セルダン他界。この時、ピアフ34歳。

「 愛の讃歌 」 が初演されるまでの事実関係については諸説ある。例えば、ピアフは妻子がいるセルダンとの関係に終止符を打つため、 「 愛の讃歌 」 を作ったという説。そうした事情から、イベット・ジローにこの曲を歌ってもらうことになっていたとも。
ここでは、この舞台のストーリーにそって書き進める。

「 愛の讃歌 」 を完成させたピアフはニューヨークにいた。セルダンもまた惜敗した現王者ラモッタとの再戦のため、ニューヨークへ行くことになっていた。当初、航路で行くつもりだったセルダンに、初披露する 「 愛の讃歌 」 を聴かせたくて、ピアフはリサイタルに間に合うようセルダンを急かした。そこでセルダンは空路を取ったが、彼の乗った飛行機はアゾレス諸島に墜落し、彼は亡くなってしまう。
諸説がどうであれ、「 愛の讃歌 」 はもう二度と会えなくなったマルセル・セルダンに捧げるため、ニューヨークのクラブ ヴェルサイユで、ピアフ自身によって初演された。これは事実である。ピアフの大親友であったマレーネ・ディートリッヒは、歌詞の中に ♪ あなたが死ねば、私も死ぬ という一節があるため、歌うことをやめるよう説得したが、ピアフは聞きいれず、 「 愛の讃歌 」 をまさに熱唱した。そして倒れる。

この舞台、最大の見せ場がここにあることは疑いようがない。
数々の葛藤を乗り越えて初演された 「 愛の讃歌 」 が与える怒濤のような感動は、もはやくいとめようもなく、劇場にいた人々を圧倒した。それにしても、ピアフの魂が憑依したかのような美輪明宏の存在感、完璧に歌い上げられた歌の力の凄まじさはどうだ。事ここに至ってはもはや、号泣あるのみ…
そして、美輪さんがリサイタルなどで常々、この歌を紹介する際に仰るあの有名な岩谷時子の訳詞 ( ではなくもはや作詞と言ってよい ) 、多くの歌手がカヴァーしている ♪ あなたの燃える手で~ という内容へのお怒りは、ごもっともだと感じる。岩谷時子の作詞は意訳としては、かろうじて認められても、実際の 「 愛の讃歌 」 はそのような歌ではないからだ。美輪明宏は 「 愛の讃歌 」 を原詩 ( 当然、フランス語 ) で歌うが、その前にその意味を朗読するかのように、パントマイムを交えて語る。


高く青い空が落ちて来たって 
この大地が割れてひっくり返ったって
世界中のどんな重要な出来事だって
どうってことは ありゃしない

(中略)
もしあなたが望むんだったら この金髪だって染めるわ 
もしあなたが望むんだったら 世界の涯だってついて行くわ 
もしあなたが望むんだったら どんな宝物だって お月様だって盗みに行くわ

(中略)
そしてやがて時が訪れて 
死があたしからあなたを引き裂いたとしても それも平気よ 
だってあたしも必ず死ぬんですもの 
そして死んだ後でも 二人は手に手をとって 
あのどこまでもどこまでも広がる 真っ青な空の 
碧の中に座って永遠の愛を誓い合うのよ
何の問題もない あの広々とした空の中で

そして神様も そういうあたし達を
永遠に祝福して下さるでしょう



いわし亭もこのシチュエーションで舞台を勤め上げたピアフの歌手としての覚悟の大きさに素直に感動してしまった。この舞台は、実は今から10年くらい前にも一度、見ているはずだったのだが、今回の方がはるかにインパクトが大きかった。今後はこの歌も 「 ヨイトマケの唄 」 と並んでいわし亭号泣ソングに格上げされた感満点で、非常にヤバい ( 苦笑 )
ピアフの代表曲である 「 愛の讃歌 」 は悲劇の象徴となってもなお、ピアフの代表作であり、封印されることなく歌い継がれたのだ。


しかし、もう一つの感動はもっと静かにひたひたと観客に忍び寄る。


私は、ただひとりの男しか愛さなかった。
その名はマルセル。
ただひとりの男だけが、私のもとから去らなかった。
その名はテオ。


舞台 第三幕

セルダンとの悲恋に終止符を打ったピアフは、その後、かなりの間、精神的な暗夜をさまようことになる。セルダンの魂を呼び出そうとして、あやしい交霊術にハマったり、麻薬に手を染めたりした。この辺りのピアフの迷走は、美輪明宏の 「 老女優は去りゆく 」 という名作の中で描かれているシーンにオーバーラップする。
この絶望的な状況から再生していくピアフ、第二の人生を彩るテオ・サラポ ( テオファニス・ランボウカス ) との関係が第三幕では描かれる。20歳もの年の差カップルではあったが、二人はたくさんの祝福を受けて結婚する。
サラポは、もともとヘアドレッサーで歌手志望ではなかった。けれども命を削るようなピアフの指導の下、彼は歌手 ( 「 恋は何のために 」 という二人のデュエットがある )、俳優へと転身し、ピアフの死後も彼女の借財を7年にわたり独力で全て返済した。そしてそれを終えると、肩の荷を下すかのように交通事故で亡くなった。サラポの最後の言葉は “ ぼくをペールラシェーズ墓地の妻の隣に葬ってほしい ”。

実は派手さはなくとも、『 愛の讃歌~エディット・ピアフ物語 』 というドラマの核心部分は、セルダンを失い、身体も心もぼろぼろになって、名声からも見はなされた後のピアフとサラポの愛の日々ではなかったか。このサラポからピアフへの無償の愛こそ、讃歌に値するものである。この 『 愛の讃歌 』 という舞台はそれゆえに、この第三幕にこそその本質があり、それこそ美輪明宏が伝えたかったことのすべて という気がする。

晩年のピアフ ~ とはいえ、彼女が亡くなったのはわずか47歳。テオとの結婚からたった1年後であった ~ は経済的には不遇だったかもしれない。確かに短かった。短かかったけれども、ピアフとサラポの日々は、穏やかな幸福に満ち足りていたに違いない。




『 BRAVA DIVA MIWA 』

 1.ふるさとの空の下に
 2.僕は負けない
 3.四十なんて嫌だよ
 4.昼メロ人生
 5.マダム カチカチ
 6.ミロール
 7.メケ メケ
 8.ボン ヴォワヤージュ
 9.黒蜥蜴の唄
10.愛のボレロ
11.ヨイトマケの唄
12.金色の星
13.愛の讃歌




セルフカヴァーや 「 ミロール 」 「 マダム カチカチ 」 など実況録音盤以外では初音源化となる 4 曲を加え、約七年ぶりにリリースされた全曲新録音のオリジナル アルバム。全曲集や旧譜の復刻ばかりで、2014 年、今現在の美輪さんの歌声が聴けないことに、不満だったたくさんのファンの溜飲を下げる一枚となることは間違いない。






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#2 美輪明宏

 #2.1 「 ヨイトマケの唄 」 ~ かつて日本語で歌われた中で最も優れた唄
 #2.2 「 愛の讃歌 」 は誰に捧げられたのか?






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