2015年11月27日金曜日

『 時計じかけのオレンジ 』 が見せるデストピアと 「 歓喜の歌 」 の奇妙な親和性


殺人罪で 14 年の実刑判決を受けたアレックスは刑期短縮のため、凶悪な犯罪者を無害な人間に矯正する “ ルドヴィコ療法 ( * ) ” の被験者に志願する。 被験者は、投薬後、まぶたを見開いた状態で椅子に固定され、眼球に目薬を差されながら残虐描写に満ちた映像をひたすら見せられる。投薬によって引き起こされる吐き気や嫌悪感とウルトラヴァイオレンスな映像が条件反射として結びつき、暴力や性行為を生理的に拒絶するよう誘導されるのだ。

第 9 交響曲 「歓喜の歌 」 をバックにした大量殺戮映像が、とてつもないアイロニーとなり、アレックスの五感を通し、映画館の観客をも責めさいなむ。

シンセサイザーで電子処理されたベートーヴェン ( Ludwig van Beethoven 1770 - 1827 )の第九交響曲が随所で効果的に用いられているが、初公開の ’71 年当時、シンセサイザーはまだまだ一般的には認知されておらず、この近未来的サウンドが作品全体に与えたハイテックな感覚は、観客にとっても未体験ゾーンだったはずだ。

“ ルドヴィコ療法 ” の結果、アレックスは敬愛するベートーヴェンを聴くと、吐き気に襲われ、倒れてしまう無害な人間 ≒ 時計じかけのオレンジ となる。

* the Ludovico technique ベートーヴェンのファーストネーム ルートヴィヒのイタリア語読み




これは暴力装置としての権力が生み出すデストピアとその権力に都合よく自由意思を剥奪され機械と化したオレンジ ( 人間 ) の寓話である。
ドラマの前半で生き生きとした生命力そのものの暴力をまき散らすアレックスとその連れ( 作品中では、原作者アントニー・バージェスによって発明されたティーンエージャー達の人工言語 “ ナッドサット語 ” で、ドルーグと呼ばれている ) は、デストピアで唯一、人間らしい存在に見える。ロッシーニの歌劇 「 泥棒かささぎ 」 序曲にのって繰り広げられるビリー・ボーイ一味との乱闘は、まるでハチャメチャな舞踏のようだ。しかしドラマの後半で、このデストピアの住人達はチャンスにさえ恵まれれば、何のためらいなく暴力の側にスイッチできることが露見する。暴力とは人間存在の本質なのだ。徹頭徹尾、暴力讃歌と言っていいほどヴァリエイション溢れる暴力描写の洪水で、執拗に繰り返されるこのテーゼは、キューブリック流のアイロニーに脚色されて、強力な説得力を獲得する。魅力的すぎるアレックスに鑑賞者もまた感情移入し、アレックスの冒険譚に耳を傾け、ついには共感させられてしまう。そして、鑑賞者は我に返った時、とんでもなくバツの悪い思いをするのである。キューブリックは言う。“ この地球上ではもっとも殺すことの好きな動物だった人間は、今でも潜在意識下に暴力への郷愁をもっている。だから映画というジャンルのなかでの殺人は、当然、一つの重要な要素となる ” ( 初公開時のパンフレット “ キューブリックが語る撮影うらばなしと映画論 ” より )
冒頭でアレックス達がいたぶった浮浪者の老人、いまや警察官に就職したドルーグの不良少年達、作家のアレキザンダー氏、保護司のデルトイド氏、あるいはアレックスの両親や同居の間借り人までもが、後半では、時計じかけのオレンジと化したアレックスを血祭りに上げようと待ち構えているのだ。正に地獄めぐりの様相を呈するアレックスの受難劇はしかし、ドラマの最後で “ ルドヴィコ療法 ” から完治することで、キリストさながらの復活劇へと転化する。“ これでめでたく逆もどり! ” そして間髪を入れずエンドタイトル ♪ I’m Happy,Again !


サウンドトラックは ’68 年にバッハ( Johann Sebastian Bach 1685 - 1750 ) の楽曲をシンセサイザーにより多重録音した 『 Switched on Bach 』 を発表し、シンセサイザーの第一人者となったウォルター・カーロス。彼は性同一症障害に悩んでおり、『 時計じかけのオレンジ 』 公開の翌 ’72 年に性転換手術を行い、’79 年にウェンディへと改名する。正に 『 時計じかけのオレンジ 』 を地で行く感じだが、その後、再びキューブリックと組み、 『 シャイニング 』 のオープニングタイトル 「 ロッキー マウンテンズ 」 ( グレゴリオ聖歌 「 怒りの日 」 の編曲 ) を担当した。
このサウンドトラック盤、驚くべきことに現在廃盤になっていて、入手しようと思うと中古盤屋をこまめに回るしかない。アナログディスクから CD への移行が喧伝された’80 年代初頭、最も早い段階でラインナップされたカタログの中に、このサウンドトラック盤があった。価格は脅威の 3800 円。サウンドトラックというユーザを選ぶジャンルにもかかわらず、アナログとデジタルの橋梁として、それほどに象徴的なアルバムだったということである。
収録曲の半分 ( 2・4・7・8・12・14 ) は、他のキューブリック作品同様、既成のクラシック曲。残りの半分が、カーロスとプロデューサー、レイチェル・エルキンドにより “ Switched on ” された近未来クラシックである。

 1. 「 時計じかけのオレンジ 」 タイトルミュージック 
ヘンリー・パーセル( Henry Purcell 1659 - 1695 ) の 「 クイーン・メリー葬送曲 」 をシンセサイザーで編曲した作品。オープニングに葬送曲を配置することによって、この作品の性質が実に明確になる。荘厳なパイプオルガンといった趣きのシンセサイザーの響きはこの近未来の SF 受難劇の幕開けを見事に牽引している。先述の 『 シャイニング 』 のオープニングタイトル同様、天罰の聖歌の調べ 「 怒りの日 」  の旋律が混入している。これは主人公アレックスの前途が多難であることも予告しているのだ。
 “ パーセル作曲の、おごそかにもコミカルな 「 クイーン・メリー葬送曲 」 が響く中、映画は主人公アレックスの不気味なクローズアップで始まる。じっとあけられた両眼、右には付けまつげ。彼はそのドルーグのディム、ジョージー、ピートたちとコロバ・バーのスーパー・ミルクで暴力ムードをかき立てて、ロンドンの街に出る。夜に乗じて彼らは暴力のダイゴ味にひたる ” ( 初公開時のパンフレット “ ニューヨーク・タイムズ紙 ’71 年 12 月 20 日付 ビンセント・キャンビー氏評 ” より ) 

 2. 「 泥棒かささぎ 」 序曲
ジョアキーノ・アントニオ・ロッシーニ( Gioachino Antonio Rossini 1792 - 1868 ) は、芸術性よりも大衆性に重きを置いた “ 才能に長け 人気はあるが 怠け者 ” の作曲家である。それは、すでに作曲した旋律を他の自作にも流用するという現在の著作権概念からは信じがたい行動を頻繁に行った ( 当時の作曲家にはよくあることだったが、ロッシーニほどのスター作家だからこそ、この行動は実に目立つ( 苦笑 )) ことに見て取れる。また、若い頃から料理を食べることも、作ることも大好きで、44歳でオペラ界から引退した後は、料理の創作や高級レストランの経営に余生を費やした。ある意味、芸術家のストイックなイメージとは程遠い人物であったと言える。ロッシーニの作品を重用することで、『時計じかけのオレンジ』という作品もまた、ある種、ふざけた感じのキャラクターを獲得しているように感じられるし、キューブリックは正にそれを狙ったのだろう。

 3. ベートヴィアーナ
ゆったりとしたテンポでさらりと演奏される 「 メアリー女王葬送曲 」 だが、印象は確かにタイトル通りベートーヴェンの楽曲を想起しかねないトリビュート感に満ちた一曲である。一日の冒険を終えたアレックスが、国営団地までの荒涼たる中を帰宅する、ちょっとさみしい感じのシーンに使われている。

 4. 交響曲第 9 番 「 合唱 」 ~第 2 楽章
本作には流石に CD ( コンパクトディスク ) は登場しないが、アレックスが眠りにつく前に鑑賞するベートーヴェンを収録したドイツ グラモフォンのソフトは、’92 年、ソニーが開発した NT-1 と呼ばれるステレオデジタルマイクロカセット 「 スクープマン 」 ( SCOOPMAN ) が実現した切手大の磁気テープを予見している。’95年に制作された TVCM ( ’96 年の広告電通賞テレビ部門家庭用機器部門の入賞作品 ) では、切手のコレクションに紛れた NT テープをピンセットで拾い上げ、再生するとヘッドフォン越しに何と 「 歓喜の歌 」 が流れるという内容だった。

 5. 「 時計じかけのオレンジ 」 ~マーチ
交響曲第 9 番の 「 歓喜の歌 」 を合唱部分も含めて電子処理している。映画の中では、“ ルドヴィコ療法 ” に使用される記録映像でナチスの行進シーンに使われており、正に闊歩するハーケンクロイツのテーマという印象だ。

 6. 「 ウィリアム・テル 」 序曲 ~スイス軍隊の行進
ロッシーニ作。アレックスがレコード ショップでナンパした女子二人と超高速 ( 28分もかけて撮影したシーンをたったの40秒で再生している ) で乱交するシーンに、同じく超高速で演奏されている。

レコードショップのシーンで映像に映りこんだアルバムを英国のデザイナー John Coulthart が、自身のサイトでレポートしている。このシーンは当時、実在した “  チェルシー・ドラッグストア ” ( 現在は “ マクドナルド ” ) でロケされているが、21 世紀にも通用するハイテックな店構えはさすが大英帝国。当然、リアルタイムの新譜やヒットチューンがレイアウトされているが、その中に 『 2001 年宇宙の旅 』 のサウンドトラック盤とピンクフロイド 『 原子心母 』 が分かりやすく 2 回も登場している。『 2001 年宇宙の旅 』 のスターゲートのシーンと 『 おせっかい 』 との関係をキューブリックも公認したのだろうか? ( < 「 エコーズ 」 と 『 2001 年 宇宙の旅 』 のシンクロニシティ>
また、ナンパされる女の子たちからは HEVEN 17 といった名前が飛び出し、細かい遊びに富んだシーンだ。 Heaven 17 は、’80 年代初頭にイギリスで結成されたシンセポップバンドで 「 Let Me Go 」 「 Temptation 」 等のヒットがある。もちろんその名はこのシーンに由来している。
そういえば、アレックスのドルーグの一人は、ジョージー・ボーイ。

 7. 行進曲 「 威風堂々」 第 1 番
 8. 行進曲 「 威風堂々」 第 4 番
サー・エドワード・ウィリアム・エルガー( Sir Edward William Elgar 1857-1934 ) 作。大英帝国、第二の国歌とされる本作が、国家権力を象徴する内務大臣の刑務所視察シーンに使われている。政府に非難が及ぶや、大慌てでアレックスを元に戻し、ご機嫌でお見舞いに参上したあの滑稽な役人である。彼は妙なカリズマ性のあるアレックスをスカウトでもする気なのだろう。

 9. タイムステップス
電子音によるノイズミュージックの嚆矢の様な前衛的作品。メロディと言うよりはアタックの強い電子音がパキポキ連なっており、これまた “ ルドヴィコ療法 ” に使用されるウルトラヴァイオレンス映像のバックに流れている。なお、ノイズインダストリアルミュージックの雄、スロッビング グリッスルの結成には、’75 年 9 月 3 日まで待たねばならない。

10. 太陽の序曲
時計じかけのオレンジに洗脳されたアレックスのお披露目のオープニングを飾る中東風の呑気な楽曲。テリー・タッカー作。

11. ぼくは灯台守と結婚したい
アレックスの苦悩をどこ吹く風と能天気に響き渡る古臭いセンス満載のポップス。エリカ・エイゲン作。

12. 「 ウィリアム・テル 」 序曲 ~ 夜明け
悲しみに沈むアレックスの心情を写し取るような陰鬱なB.G.M.。前出の 「 スイス軍隊の行進 」 はカーロスのおちゃらけのような超高速演奏に置き換えられていたが、こちらは既存のクラシカルなスコアがそのまま使われている。

13. 自殺スケルツォ
作家アレキザンダー氏の復讐で、大音響のベートーヴェンを無理やり聞かされ、嘔吐と不快感でいっぱいになったアレックスはとうとう身投げする。文化人を装ったアレキザンダー氏の暴力性が一気に露見するシーン。アレックスの悲鳴を聞きながら、作家アレキザンダー氏は凄まじい法悦境にある。このシーンのパトリック・マギーの表情が、実はこの作品中、一番恐ろしい。

14. 交響曲第 9 番 「 合唱 」 ~ 第 4 楽章
フリードリヒ・フォン・シラーの原案をベートーヴェンが引用、書き直した歌詞が、アレックスの復活劇を大いに讃える。第 9 交響曲のクライマックスであり、この合唱をそのまま映像化したようなシーンで、映画はハッピーエンドを迎える。

♪  抱き合おう、万人よ
   この接吻を全世界へ
   兄弟よ 創造主は星空の彼方に住んでいる
   喜びは美しき霊感
   至福の園の娘

15. 雨に歌えば
前半の作家アレキザンダー氏宅のサプライズ訪問でのレイプシーンでアレックスが歌い踊るミュージカルの超名曲。アレックスの復活劇を祝福するかのようにエンド クレジットを牽引する。正に観客に冷や水を浴びせかける悪意に満ちている。

プログレッシヴロック四天王の一角、エマーソン、レイク&パーマーがモーグ シンセサイザーを導入し、ステージ デビューしたのは ’70 年 8 月 29 日 ワイト島で開催された “ 第 3 回ワイト島ポップフェスティバル ” である。これは 『 時計じかけのオレンジ 』 の製作時期に当たる。
また今日、サウンドトラックには欠かせないドルビー ノイズリダクションシステムを使用し、ステレオ録音された史上初めての映画でもある。

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英国の作家 アントニー・バージェスの 『 時計じかけのオレンジ 』 ほど、数奇な運命をたどった小説も珍しいのではないか。

バージェスは脳腫瘍で余命 1 年と宣告され、妻に遺産を残すため、小説を書いて出版社に売り込もうと考えた。余命 1 年の間に 5 作と半分の小説が書けた。『 時計じかけのオレンジ 』 はその中の一つである。結局、この余命宣告は誤りで、バージェスは 76 歳まで生き、70 以上の小説を上梓した。
『 時計じかけのオレンジ 』 の中で主人公アレックス一味のサプライズ訪問を受け、妻は死亡、自身は半身不随になった作家アレキザンダー氏こそバージェスその人であり、彼を襲った悲劇でもあった。キューブリックによる映画化を経て、バージェスにとって鬼子となった 『 時計じかけのオレンジ 』 を “ 私は暴力に耐えられない。暴力が憎い。暴力行為を文章にしたら、それはその行為を作り出したということなんだ! 今のわたしはあのクズ本を嫌悪している。あの小説を書いている時に感じた自らの高揚した気分が許せないのだ ” と激烈に語る。

『 時計じかけのオレンジ 』 は、全 21 章で構成されていたが、米国で出版された際、編集者のエリック・スウェンソンはバージェスの意図に反し、最終章である第 21 章を不要として削除した ということになっている。しかしこれは、かなり不自然な逸話ではないか ? 単なる一編集者にそこまでの権限があるのだろうか? 
そして、キューブリックによる映画化も、テリー・サザーン ( 『 博士の異常な愛情 』 をキューブリック、ピーター・ジョージと共同執筆 ) から渡されたものが米国版であったため、米国版に沿って最終章のない形で製作された、ということになっている。
キューブリックは言う。“ 原作をもらったのは 『 2001年 宇宙の旅 』 の撮影中だった。読むひまがなかったので長い間、本棚に眠っていたが、ある晩、ふと目にして読みだしたらおもしろくて椅子からいちども立たずに読みおわってしまった。第一章で、映画になると思い、第二章で興奮し、それから二、三日は本のことで頭がいっぱいになった ” “ どんな監督でも鉛を金にすることはできない。だから私は、本えらびに慎重で、いいかげんな気持で仕事を始めたことは一度もない。その本に惚れこむことことが必須条件だ ” ( 初公開時のパンフレット “ キューブリックが語る撮影うらばなしと映画論 ” より ) 

最終章のない
『 時計じかけのオレンジ 』
( ハヤカワ文庫 )
その後、米国でも第 21 章は復活して、ごく普通に出版されるようになった。日本語翻訳版でも、’80 年発行の単行本、アントニー・バージェス全集第二巻で見ることができたが、現在、全集は絶版。普及していた文庫本はアメリカ版を底本としたものであったが、’08 年になって同作を復刻するにあたり、第 21 章を含む “ 完全版 ” として発売されている。
21 という数字は人間が成人し、最も成熟する歳とされており、3  × 7  = 21 章という構成にこだわった とバージェスは説明する。また、第 20 章でアレックスが元の悪党に戻っただけで終わるのでは、意味が無い という発言もしている。確かに、見事なほど辻褄の合う説明だがしかし、本当だろうか?

第 21 章の概略は以下の通り。
失脚を恐れた政府によりルドヴィコ療法から回復したアレックスは、新しいドルーグ達とつるんで、再びウルトラ ヴァイオレンスに耽溺するが、そんな生活にどこか倦怠感も覚えていた。ある日、アレックスはかつての仲間ピートとその妻に出会う。アレックスはピートから子供が生まれたことを聞き、自分も 18 歳になったので、そろそろ女でも作って落ち着こうと考え、ウルトラ ヴァイオレンスからの卒業を決意する。
アレックスは小賢しくも、かつて犯した犯罪は全て “ 若気の至り ” である と総括し、それは子供時代には誰でも避けられない道で、自分の子供が暴力の道に進むことも、止めることはできないだろう と、自らの行為を正当化する。

『 女子高生コンクリート詰め殺人事件 』 『 名古屋アベック殺人事件 』 『 光市母子殺害事件 』 …  いずれもネットを検索すれば、かなりの数の記事がヒットするだろうから、詳述は避ける。これら世間を震撼させ、少年法改正に多大な影響を与えた事件が、明確にしていることは、主犯クラスでさえ死刑に出来ず ( あるいは判決までにとんでもない時間を要し ) 、また被害者の救済に関して何らの誠意ある対応を取らない司法の無能さ、あるいは加害者側の不快指数 100 % 越えの無責任さだけである。
例えば、『 名古屋アベック殺人事件 』 に関するルポ ( 「 新潮45 」 編集部編 『 殺戮者は二度わらう ― 放たれし業、跳梁跋扈の 9 事件 』 新潮文庫 ) によると、共犯者の一人は “ 事件にばかり引きずられていてもアレでしょう、前に進めないと思う ” “ 娘が同じ目にあったら許さないと思う ” “ 賠償金については親が示談したが、親とも連絡をとらなくなって、忘れてるというかそれで終わってる ” “ 被害者の墓参り? 行く時間がないので難しいね ” 等々、被害者への懺悔や賠償の意思の全く感じられない自己弁護のみに終始している。この不快指数 100 % 越えの発言、アレックスの総括と実に似通ったニュアンスを持っているとは言えまいか。
いわし亭は “ 若気の至り ” を表現する “ やんちゃ ” と言う言葉が大ッ嫌いなのだが、やや自慢気味に武勇伝として語られる “ 昔は悪かった ” “ やんちゃした ” といった物言いをする連中も、やがて “ やんちゃ ” を卒業し、親としてのうのうと暮らす。そういう連中が一般的で平和的な市民を演じている事実は、例えようもないほど不気味で不快なものだ。しかもそんな事例は実はいたるところに存在する。
バージェスが提示したもう一つの結末もまた、後味の悪さという点ではかなりのレヴェルである と思う。

キューブリックはこの件に関し、ミシェル・シマン著 『 キューブリック 』 ( ’72 ) の中で “ それ ( 最終章 ) は納得のいかないもので、文体や本の意図とも矛盾している。出版社がバージェスを説き伏せて、バージェスの正しい判断に反して付け足しの章を加えさせたと知っても驚かなかった ” と話している。つまり、バージェスは当初、第 20 章で完結していた 『 時計じかけのオレンジ 』 に何らかの理由で不本意ながら、最終章として第 21 章を追加した ということだ。


最終章を追加して再発された
『 時計じかけのオレンジ
完全版 』 ( ハヤカワepi 文庫 )
いわし亭は地元の書店の戸棚で、この最終章を含む 『 時計じかけのオレンジ 』 を収録したアントニー・バージェス全集第二巻を発見し、立ち読みした覚えがある。立ち読みで済ませられるほど、短かい章だったからだ。そして、結果、相当がっかりした。その本自体希少なものだったから、本来ならそのままレジに持っていったハズだが、そうはしなかったのだ。

いわし亭もキューブリックとまったく同じ印象を持った。この最終章には、一冊の本を書きあげるために費やされる作家の情熱が全く感じられない。つまり、執筆が完結した後で、付け足したことが、素人読者にさえ簡単に見破れるのである。
この最終章が追加されることで、『 時計じかけのオレンジ 』 は単なる不良少年の冒険譚にそのスケールを矮小化されてしまう。それはせっかく、ここまで積み上げてきた努力を灰燼に帰するに等しい。無理やり設定されたハッピーエンド ( ? ) はそれほどまでに作品全体の印象を変えてしまうが、逆にそれをたった一章、数ページで可能にするバージェスの才能もまた、これはこれで凄いと認めざるを得ない。
『 時計じかけのオレンジ 』 の持つ不気味さとは、そしてバージェスが本来意図した主題とは、個人レベルの暴力など所詮、多寡が知れており、一番恐ろしい暴力装置は実は権力であることを得意のブラックユーモアにくるんで暴くことだった。さらに、自由意思のもとに選択される正義と悪の問題、人間を無力化・家畜化するシステムの創出、実に危うい権力の立脚点と滑稽極まる政治家、あるいは単純に暴力をエンタテインメント化する不埒さ といった様々なベクトルを内包しているのである。これらは全て、キューブリック作品がテーマとしてきたものばかりだ。

なお、三上延のライトミステリー小説 『 ビブリア古書堂の事件手帖 』 の第 2 巻 第 1 話では、この最終章のエピソードをモチーフにした短編が書かれている。


『 時計じかけのオレンジ 』 ほど社会問題を誘発し、センセーショナルな話題を提供した作品もまた稀有である。ネットを検索すると、この作品が原因で起こったとされる ( よく吟味すれば、実は濡れ衣的なものばかりだが… ) 事件に多数、ヒットする。

最も有名なケースは、米国人アーサー・ブレマーによるアラバマ州知事ジョージ・ウォレスの暗殺計画である。ブレマーは “ 『 時計じかけのオレンジ 』 を見てから、ずっとウォレスを殺す事を考えていた ” と日記に書いている。

後に出版されたブレマーの日記にヒントを得て、ポール・シュレイダーは 『 タクシー・ドライバー 』 の脚本を書いた。シュレイダーは、ブレマーと自分があまりにも似ていたこと、その驚きと恐れが脚本を書かせたと言う。『 タクシー・ドライバー 』 は時代を写し取り、マーティン・スコセッシの代表作となったが、負の連鎖はさらに続く。ジョン・ヒンクリーは、ロバート・デニーロが助け出した少女娼婦役のジョディ・フォスターに偏執的な憧れを持ち、ジョディの気を引くために、レーガン大統領暗殺未遂事件を起こすのだ。
それ以外にも、裁判の場で 『 時計じかけのオレンジ 』 を模倣した と言及される暴力事件が頻発した。14 歳の少年の同級生殺害事件、16 歳の少年の浮浪者老人殺害事件、少女レイプ事件、ドルーグ の格好 ( 山高帽とエドワード7世風のファッション、コッドピース ) をした四人の少年による尼僧輪姦事件などである。

キューブリックはインタヴューに対して “ 芸術には暴力がつきものだ。聖書にもホメロスにもシェイクスピアにも暴力は登場する。そして多くの精神科医が、それらは模倣の手本としてではなく、カタルシスとして役に立っていると考えているんだよ。芸術作品が社会に危害を加えたことは一度も無い。逆に社会に対する危害の多くは、自分たちが危険とみなした芸術作品から社会を守ろうとしてきた者達によってなされた。映画・テレビが無垢な善人を犯罪者に変えかねないなんていうのは、あまりにも短絡的な発想である ” と答えていた。

しかし、犯罪の多発が映画の影響であるとの意見は後を絶たず、またキューブリックの家族まで巻き込んだ脅迫状が届くに至って、自身と家族の安全を危惧したキューブリックの要請により ’73 年英国での上映が禁止された。英国で再上映が決定したのは、キューブリックが他界した後の ’99 年になってからである。ここにも深刻な封印問題が存在したのだ。

’92 年、いわし亭は仕事で仏国カンヌを訪れたが、実はこの時こそ、欧州で 『 時計じかけのオレンジ 』 の封印が解かれたタイミングだった。日本では修正版ながらもビデオが存在し、また ’78 年秋には映画館でリヴァイヴァル鑑賞していた経緯もあって、封印という事態への ??? たるや尋常ではなかったが、事実、欧州でも英国に準ずる扱いを受けていたのだ。カンヌのいたるところに、件の天狗の様なマスクをつけたアレックスのポスターが跋扈し、かの地のビジネス パートナーは初めて観賞した感想を “ とてもこわかった ” と語った。


『 時計じかけのオレンジ 』 の最終章問題は実は、こうした社会的騒動に巻き込まれた作家の苦肉の策だったのではないか? という気がする。映像作家であったキューブリックは、上映禁止措置と言う断腸の決断を行ったが、一方の当時者である原作者のバージェスは、当初の意図に反して追加させられた最終章をこれ幸いとクローズアップし、作品に対して先述のような否定的コメントを連発することで、この問題に対処しようとしたのではないか?

最終章のあるバージェスのオリジナル版とそれがないキューブリックの映像作品は、似て非なるものである。むしろ、映画はバージェスの提示したプロットに基づいて、キューブリックが創作したものとさえ言っても良く、映画にしか登場しない演出も多いのだ。これこそ正にバージェスが意図した最終章効果である。


『 時計じかけのオレンジ 』

原題 A Clockwork Orange

監督・製作:スタンリー・キューブリック
脚本:スタンリー・キューブリック
出演者:マルコム・マクダウェル/パトリック・マギー/マイケル・ベイツ
音楽:ウォルター・カーロス
撮影:ジョン・オルコット
編集:ビル・バトラー
配給:ワーナー・ブラザーズ
日本公開:1972 年 4 月 29 日
上映時間:137 分
製作国:イギリス/アメリカ合州国
製作費:$ 2,200,000



初公開の ’72 年当時、当然のことながら我が国日本で、ヘアヌードは解禁されていなかった。そのため、当該部位を で塗りつぶしたヴァージョンが公開された。この が冒頭のビリー・ボーイ達によるレイプ シーンでは、何故か当該部位の前後左右の移動に対して微妙に遅れがち ( ! ) だったり、アレックスがレコード ショップでナンパした女の子たちといたす乱交シーンでは、シーン自体がハイスピード撮影されていたこともあって、大量に ウジャウジャ! 出てきて、それがウォルター・カーロスのこれまた超ハイスピードな 「 ウィリアム・テル 」序曲 と絶妙にマッチし、大爆笑だった。ヘアヌードが解禁されていないことを逆手に取って、こういうオモロイことが出来たのも、あの時代ならではのことではある。無修正版が普及した現在では、むしろあのヴァージョンが見てみたいものだ。この をフィルムの一コマ一コマに地味~ に書き込んで行ったのは、キューブリックその人だったのだろうか。彼の姿を想像するとかなり笑えるのだが… 

いわし亭が生まれて初めて購入したレコードは 『 燃えよドラゴン 』 のオリジナルサウンドトラック盤だが、LPレコードに架けられていた帯の裏側に当る部分に、『 時計じかけのオレンジ 』 『 オー! ラッキーマン 』 ( 数奇なことにこの作品の主演もマルコム・マクダウェル ) のサントラ広告が入っていた。いわし亭もまた、この三角形のアンモラル感ダダ洩れのイラストを見て、“何だ!? この映画は? ” と畏怖していたのを思い出す。





スタンリー・キューブリック 監督 作品

拳闘試合の日 Day of the Fight (1951年)
空飛ぶ牧師 Flying Padre (1951年)
海の旅人たち The Seafarers (1952年)
恐怖と欲望 Fear and Desire (1953年)
非情の罠 Killer's Kiss (1955年)
現金に体を張れ The Killing (1956年)
突撃 Paths of Glory (1957年)
ロリータ Lolita (1962年)
博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか
 Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb (1964年)
2001年宇宙の旅 2001:A Space Odyssey (1968年)
時計じかけのオレンジ A Clockwork Orange (1971年)
バリー・リンドン Barry Lyndon (1975年)
シャイニング The Shining (1980年)
フルメタル・ジャケット Full Metal Jacket (1987年)
アイズ ワイド シャット Eyes Wide Shut (1999年)
















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