2013年12月11日水曜日

いわし亭部長とフランシーヌ千里部員の音楽放談 ~ ついにやって来た一人ビートルズ。ポール・マッカートニーの 『 OUT THERE JAPAN TOUR 2013』 レポート!


第16回目 テーマ:ザ ビートルズ ~ その凄さについて話しましょう 第三回 コンサート編


フランシーヌ千里です。
2013 年も 1ヵ月足らずとなってまいりました。クリスマスとお正月が近くなってわくわくしますね!

さて、音楽放談はビートルズの第 3 回目。ポール・マッカートニーの 『 アウト ゼア ジャパン ツアー 』 レポートです。
そもそも “ 今年、ポールが来るよねぇ。だったらビートルズについて放談しよう ” ということで始まったビートルズ シリーズ。いわし亭部長は、当初、大阪と東京の 2 ヵ所での参戦予定でしたが、結果的には大阪のみの参加となりました。しかし、その興奮ぶりからもポール、そしてビートルズがいかに素晴らしいのか ということが分かりました。
3回にわたり、ビートルズの凄さについて触れてきましたが、そうした偉大なアーティストと同時代に生きているというのは、素晴らしいことですよね。

では、ポール・マッカートニーのステージの感想をお聞きください!







11月 11日 ( 月 ) 京セラドーム大阪
11月 12日 ( 火 ) 京セラドーム大阪
11月 15日 ( 金 ) 福岡ヤフオク! ドーム
11月 18日 ( 月 ) 東京ドーム
11月 19日 ( 火 ) 東京ドーム
11月 21日 ( 木 ) 東京ドーム


12日がエディ・ジョブスンのデビュー 40周年記念特別公演に当っており、すでにチケットを抑えていたため、東京ドームに行くかな とも考えていたのだが、うまい具合に追加公演が発表され、11日に参加できた。
11 日は 『 アウト ゼアー ジャパン ツアー 』 初日となったが、ポーランド、イタリア、オーストラリア、カナダ、アメリカと続くツアーの一環としての日本上陸なのだから、逆に調子はいいのではないか という気がした。むしろ、年齢的なことを考えると長期滞在する程に、内容は悪くなるのでは とさえ思った。実際、ポールはインタヴューで “ ステージにいる時でさえ、一瞬、今自分がどこにいて何をしているのか、分からなくなる時がある そして、我に返って しっかりしろポール! と自分を叱咤激励する ” と答えているくらいなのだ。

では、この 『 アウト ゼアー ジャパン ツアー 2013』 初日。
どうだったのか?


ひとことで言って、これこそ “ 神憑り ” と言う以外ない未曽有のパフォーマンスであった。
近頃では、“” という言葉も安易に多用されるので、“ 神憑り ” という言葉にどの程度の説得力があるのか? はなはだ心許ないが、71 歳のお爺さんが 2 時間半以上にわたって、ハイクオリティで、休みなく楽器を弾き、歌い続けるという事態は、正に音楽のミューズがポールの後ろで見守っている ということでもない限り、実現不可能ではないのか と感じた。

そしてこれは “ ドント トラスト オーヴァー 30 ” とガナリ続けて来た半世紀以上に及ぶロックの歴史が、初めて遭遇した異常事態である。ついにロックは老名優を擁するジャンルへと羽化したのだ。これこそ、ロックがある意味、新しい地平へ突き抜けたことを知らしめた決定的瞬間だったのではなかろうか。長年、ロックにこだわってきたいわし亭としても、この瞬間に立ち会えたことを光栄に思う。

大阪京セラドームのキャパシティは 3万6千人、福岡ドームは 3万人、東京ドームは 5万人なのだが、これがことごとくソールド アウトしている。1966 年に行われたビートルズ、最初で最後の武道館コンサートの観客動員数は、3 日間計 5 回の全公演をあわせても約 5 万人( 2万 5千人という説もある)だったのだから、今回のコンサートが如何に大きなスケールのものかが分かるだろう。

その存在感だけで、超巨大観衆を抑え込んだのは、何と 71 歳のお爺さんなのだ。

ポールは正に最高峰の “ 生きた音楽の世界遺産 ” そのものなのだ。ビートルズがデビューして早 50 年である。ポールの中に、全てのポピュラー音楽の歴史が詰まっていて、ひとり人間ジューク ボックスと化したポールは、捨て曲なしの大大ヒット曲を連発して、ファン一人一人の記憶を呼び覚ます。
ポール自身も、かつて出会いそして別れた人々との邂逅を交えて、ステージを進める。
究極の近親憎悪の関係にあったジョン ( 「 Here Today 」 )、死別した最愛の妻 リンダ( 「 Maybe I‘m Amazed 」 )、大切な仲間だったジョージ ( 「 Something 」 )、今を生きる現在の妻 ナンシー ( 「 My Valentine 」 ) といった彼を取り巻いて来た、今、彼を取り巻いている人々への純粋な感謝の念で、歌を紡いでいく。


 

楽曲のキャラクター毎に複数のプロデューサー起用が功を奏した久々の傑作。
ゼロ年代的なサウンド作りとポール節が競演するこれは、正に “ NEW ” と
に相応しい ’60年代とゼロ年代の幸福なバトンタッチである。
ポール・マッカートニー 『 NEW 』

 1. セイヴ アス
 2. アリゲイター
 3. オン マイ ウェイ トゥ ワーク
 4. クイーニー アイ
 5. アーリー デイズ
 6. NEW
 7. アプリシエイト
 8. エヴリバディ アウト ゼアー
 9. ホザンナ
10. アイ キャン ベット
11. ルッキング アット ハー
12. ロード
13. ターンド アウト
 (ボーナス トラック)
14. ゲット ミー アウト オブ ヒア 
(ボーナス トラック)
15. ストラグル 
(日本盤ボーナス トラック)





71 歳という年齢は決してマイナス要因だけではない。このツアーのテーマは “ バック トゥ ザ ビートルズ ” なのだが、ある種のこだわりを捨てて、ファンのためにビートルズの曲を演奏する気になれる年齢に達したというのは、何よりである。
実際、ビートルズが解散して以降、かなりの期間、元メンバーに対するインタヴューでは、ビートルズの話題は禁忌事項だったのだ。

コンサートでは実に 39 曲もの演奏が披露されたが、うちビートルズが 25 曲 ( 64% )、ウイングスが 7 曲 ( 18% )、ソロから 7 曲 ( 18% 新譜 『 NEW 』 から 4 曲 ) で、ビートルズ時代の楽曲が圧倒的に多い。また、新譜の 『 NEW 』 もやはりゼロ年代のビートルズのニュアンスが強かったから、コンサート全体がなにやらビートルズ一色だったのだ。
しかし、よく考えてみるとビートルズの楽曲は、現在、故マイケル・ジャクソンに著作権があり、歌えば歌うほど実は持ち出しが多くなるのだ ( 笑 ) 入場料や観客動員数の規模から見ても、これはかなりの金額になるだろう。これもある意味、ポールのファン サービスなのだから恐れ入る。
ポールはもはや、やりたいから、好きだからコンサートを行っているのだろう。今、ポールを突き動かしている原動力は、ポールに関わった沢山の人々に対する感謝の気持ちなのだ。

ビートルズがコンサートをやめてしまったのは、凝った音作りへのこだわりから、スタジオワークに専念する時間が欲しい という希望が膨らんだためなのだが、結果的にそれらの楽曲は技術的制限からコンサートでは再現できなくなった。むしろ逆に、作品を制作するに当ってコンサートで演奏出来る という制約は取り除きたかったのだろう。
しかし、現在の音響テクノロジーの進化がこのコンサートを想定していない楽曲の数々を、ライヴで鳴らせてしまっている という事実は大きい。やはり長生きはするもので、『 リボルバー 』 ( ’66 年 ) 以降の楽曲がライヴで聴けるというのは、ある意味、ファン冥利に尽きる。

今回、演奏された楽曲の内、コンサートの幕開けとなる重要な1曲目の 「 EIGHT DAYS A WEEK 」 ( ’65 )、他 「 All Together Now 」 ( ’69 ) 「 Lovely Rita 」 ( ’67 ) 「 BEING FOR The BENEFIT OF MR.KITE! 」 ( ’67 ) の 4 曲はビートルズの現役時代も解散後もビートルズのメンバーによってコンサート、等で演奏されたことは一度もなかったレアなものである。
単純に ’66 年以降に発表されたビートルズの楽曲を演奏順に挙げてみると、「 The Long and Winding Road 」 ( ’70 ) 「 Blackbird 」 ( ’68 ) 「 Lady Madonna 」 ( ’68 ) 「 All Together Now 」 ( ’69) 「 Lovely Rita 」 ( ’67 ) 「 Eleanor Rigby 」 ( ’66 ) 「 Being For The BENEFIT OF Mr.Kite 」 ( ’67 ) 「 Something 」 ( ’69 ) 「 Ob-La-Di, Ob-La-Da 」 ( ’68 ) 「 Back in the U.S.S.R. 」 ( ’68 ) 「 Let It Be 」 ( ’70 ) 「 Hey Jude 」 ( ’68 ) 「 Get Back 」 ( ’69 ) 「 Helter Skelter 」 ( ’68 ) 「 Golden Slumbers ~ Carry That Weight ~ The End 」 ( ’69 ) となる。

一説にはポールのギャラは2億円とも言われるが、ハリウッド映画スターのギャラから考えればまだ安い位だろう。
リスク ヘッジという意味でも、ただ単にやって来て、歌って、帰りました というわけにはいかないだろうから、セキュリティ面での万全も期せば ( 何かあればそれこそ世界中から非難轟轟の事態である。ましてや、ジョン・レノンの事件のこともある )、想定外のコストが相当かかってくるのは想像に難くないし、ましてや、あの年齢である。不遜な話ではあるが、ステージ上でライヴ中に、そのまま死んでしまうこと自体、ありえないことではない。

3時間弱にも及んだ長いステージの間、全く水を飲まなかったことから、影武者起用疑惑が出ている。欧米のミュージシャンはテレビ出演の際など、歌わないのが当たり前で、口パクはお手の物だし、ポール クラスの大物ともなれば、本人以上に本物そっくりに歌える影武者など何人もいるだろう。それに、ミキサーのヴォリュームを下げてしまえば、演奏している音だって、差し替えられる。口パクに関して言えば、ジャニーズ系のアイドルたちのそれはもはや常識であるが、筋金入りのジャニーズ ファンである家内によれば、テレビのレポート番組などで放送されたポールの姿からは、全部が全部そうではなさそう と感じた とのことだ。

しかし、“ だからどうした ” という気もするのだ。極端な話、演奏する真似でいいし、歌う真似でもいいし、それでもポールはポールなのだ。そこにいるのは紛れもなくポールその人なのだから、それだけで十分ではないか と思う。

アンコール前のラスト 「 Hey Jude 」 は予想通り、会場が一体化しての大合唱となった。まさにこの瞬間、ポールは 71 歳のお爺さんではなく、現役パリパリのミュージシャンだと感じた。
“ 男の子だけ ” “ 女の子だけ ” とカタコトの日本語で話しながら、力こぶを作る仕草をしたり、しなを作って見せたり、その姿が何とも、微笑ましい。この人、本当に色気があるのだ。驚かされた。
二回に及ぶアンコール、その本当の最後の演目は 『アビイ ロード 』 を締めくくる3曲だった。
この長いライヴはある意味、ポールの歴史そのものであり、50年以上に及ぶ壮大なロック&ポピュラー絵巻でもあったのだ。この物語の大団円が、ビートルズの放った最後の輝きである 『 アビイ ロード 』 の幕を引く楽曲へとシンクロしていく演出の見事さ。
ビートルズが終わり、’60 年代が終わり、“ 夢は終わった ” とさえ言われたけれども、ロックもポピュラーもビートルズの遺産を継承し、見事にバトンを引き継いで、現在に至っている。これほどのエンディングがあるだろうか。
唸った。
酔った。
震えが来た。


このステージが余りにも素晴らしかったので、マジでもう一回、見たいと思った。しかし、ソールド アウトしたチケットのプレミア度は半端ではなく、最終日の 21日、東京ドームのチケットを手に入れるのは不可能だった。この事実は、楽観はできないものの、日本の景気は回復したのではないか とさえ思わせるものだった(笑)

21日の日本公演最終日に関する情報を探して、ネット サーフィンをしていると以下のような記事があった。
~ 入場時、スタッフの方から赤いサイリウム入りのビニール袋を渡され、同封の紙には < このサイリウムを使ってポールに “ おつかれさま ”  と “ ありがとう ” の気持ちを込めてサプライズをしよう > と書かれてありました ~
主催者ですら、ポールのファンであり、単純なビジネスとしてこの一大イヴェントに関わったのではない ということがよく分かる泣かせるエピソードだと思う。



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ザ ビートルズ ~ その凄さについて話しましょう
     第一回 記録編
     第二回 記憶編





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